豊崎郡・豊崎郷(読み)とよさきぐん・とよさきごう

日本歴史地名大系 「豊崎郡・豊崎郷」の解説

豊崎郡・豊崎郷
とよさきぐん・とよさきごう

豊崎郡は室町初期より江戸時代前期にかけてみえる郡で、対馬八郡の一つ。対馬島の最北部に位置し、東は日本海、北西は朝鮮海峡に面し、南西は佐護さご郡、南東は伊奈いな郡と接する。現上対馬町北部と上県かみあがた町の一部にわたる。郡の主邑である上対馬とよ地区は、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡があり、また「延喜式」神名帳の上県郡一六座の一つ「島大国魂神社」に比定される重要な祭祀が鎮座、古代の一中心地であったと想定される。これより「和名抄」に記される上県郡向日むかひ郷を門日とひの誤りとして同地区に比定する説があり、豊崎の地名も郡名以前にみられることから、古代に豊崎郷が設定され、豊崎郡は中世の対馬のほかの郡名と同じくその郷名を継承したという可能性もある。江戸時代中期以降は対馬八郷の一つとして豊崎郷と改める。

〔豊崎郡〕

郡名の初見は室町初期で、それ以前は佐護郡に属していた。「津島紀略」に応長元年(一三一一)の文書に佐護郡古里ふるざと(現上対馬町)とあるのは疑うべきとあるが、応永一〇年(一四〇三)一〇月二七日の宗貞茂宛行状(豊崎郷給人等判物写)に「対馬島佐護郡之内大浦(現上対馬町)、同三二年六月一四日の宗貞盛安堵状(豊崎郷給人等判物写)に「さこの郡之内」「一所ふる里」とあり、のち豊崎郡域となった地も佐護郡であった。しかし文安二年(一四四五)八月一七日の宗貞盛宛行状(豊崎郷給人等判物写)に「豊崎郡之内、おうの村」とあり、郡の成立はこの間となるが、嘉吉元年(一四四一)一二月一三日の宗貞盛書下(歩行判物帳)に「対馬国八郡」とあり、豊崎郡もこの八郡に含まれるのでこれ以前と考えてよい。当郡の設置または分立は、宗貞茂の次子盛国を豊崎郡主として佐護郡から分けたことに伴う措置という見解がある。しかしそれでは貞茂が死んだ応永二五年以前に豊崎郡があったことになり、同三二年の宗貞盛安堵状の存在と矛盾することになる。ただし現上対馬町西泊の西福にしどまりのさいふく寺の大般若経施入記に「対馬州豊崎郡西泊富嶽山西福寺常住。檀越宗刑部少輔貞茂」とあるのが、年未詳ながら貞茂の生前のこととすれば、当郡の成立は早くなり、検討を要する。

永享六年(一四三四)一〇月七日の宗貞盛安堵書下(三根郷判物写)によれば、「対馬島とよさきの内、わりのさいちやうち」が「みたらいの又三郎」に安堵されているが、この「とよさき」を郡とする見解がある。「さいちやうち」は在庁地で、在庁禅祐坊(阿比留国俊)の伝説とその霊を祀った祭祀がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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