護国寺跡(読み)ごこくじあと

日本歴史地名大系 「護国寺跡」の解説

護国寺跡
ごこくじあと

石清水八幡宮本宮の北東一町半ばかりに南面してあった寺。嘉暦元年(一三二六)九月一七日の当寺炎上の子細を注進した同月二三日の石清水八幡宮護国寺言上状(石清水文書)

<資料は省略されています>

みえ、遷座前よりの古寺を、行教が公に奏申して護国寺と改称したこと、当寺と石清水社は一体の関係にあって当山の司はまた護国寺の司であったことが知れる。当山の年中行事のうち護国寺で勤修されるものも多く、例えば一月の修正会・大師供、二月修二月会、四月灌仏会、六月蓮花会、七月盂蘭盆講などがあった。

護国寺跡
ごこくじあと

[現在地名]熊本市魚屋町二丁目

魚屋うおや二丁目の南側にあった。常住院(「国志草稿」では常行院)と号し、天台宗本尊観世音菩薩。寺記(国誌)に「聖武帝御宇天平年中、国中天災多キ故、国界邏衛ノ為一寺ヲ建テ護国寺ト号シ、行基菩薩ヲ開祖トス」とある。最初は古府中こふちゆうにあったと伝えられ、現在の二本木にほんぎ地名は当寺の裏門にあった木に由来するといわれる。現在寺の遺構といわれる長径二・二七メートル、短径一・七四メートルの大きな礎石が二本木三丁目に残る。承平(九三一―九三八)頃には国司藤原保昌が尊崇したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報