角田要害跡(読み)かくだようがいあと

日本歴史地名大系 「角田要害跡」の解説

角田要害跡
かくだようがいあと

[現在地名]角田市角田 牛舘

角田城、また臥牛がぎゆう館とも称する。古くは金鶏きんけい(館)と唱えたともいう(角田本郷安永風土記)。角田(伊具)盆地の中央にあって、西の斗蔵とくら山に連なる丘陵地が東の阿武隈川に向かって張出し、平野に突出した形の標高三〇メートルの孤立した丘陵上に営まれた。

最初の角田城主とされるのは田手式部大輔宗光で、田手氏は以前伊達崎氏を名乗る伊達氏庶流であった。すでに永正一二年(一五一五)には高倉たかくら郷内の一部など伊具いぐ庄内の地が田手侍者丸に安堵されており(同年一〇月四日「伊達稙宗安堵状案」伊達家文書)、田手氏一族は伊具郡内各地に所領を得ていたのであろう。天文二二年(一五五三)集成の晴宗公采地下賜録では、田手助三郎(宗光)は伊具西根総成敗に任じられている。小田おだの斗蔵寺観音堂にある永禄三年(一五六〇)九月一六日銘の大鉄鉢は田手宗光(初名時実)により奉納されたものである。「性山公治家記録」によれば、元亀元年(一五七〇)に伊達輝宗の家臣中野宗時・牧野久仲らの謀反が露見して米沢より相馬そうま(現福島県相馬市)に逃れた時に、角田城主田手宗光等が逃亡を助けたという。ただしこの時は伊達実元のとりなしなどにより、宗光の子宗時がそのまま角田城を安堵された(伊達世臣家譜)。宗時は天正四年(一五七六)八月二日に輝宗が伊具へ出陣した際、第三番の備頭として連判起誓している(性山公治家記録)。同一〇年四月伊達輝宗・政宗は相馬との戦いに出馬して角田城に在陣した。しかし同月、城主田手宗時は相馬表で戦死(同書)、嫡子助三郎宗実が家跡を相続した。天正一九年田手宗実は柴田郡小泉こいずみ(現村田町)に所替となり、かわって伊達藤五郎成実が角田城主となった。成実は伊具郡内一六郷・柴田郡内一郷を与えられ、二本松にほんまつ(現福島県二本松市)から移った(貞山公治家記録)。ところが成実は処遇に不満があってか文禄四年(一五九五)に京都伏見ふしみで出奔。政宗は屋代景頼に命じて武力で成実家中の退去と角田城の接収を行わせたという(「伊達世臣家譜」など)。のち慶長五年(一六〇〇)白石しろいし城攻めの際成実は伊達家臣に復帰した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報