西橋詰町(読み)にしはしづめちよう

日本歴史地名大系 「西橋詰町」の解説

西橋詰町
にしはしづめちよう

上京区下立売通堀川西入

東西に通る下立売しもたちうり(旧勘解由小路)の両側町で、町の中央を南北に葭屋町よしやまち通が通り、西は猪熊いのくま(旧猪隈小路)、東は堀川ほりかわ(旧堀川小路)。平安京の条坊では左京一条二坊二保六町の南から同五町の北の地で、官衙町の一つ「内蔵寮」(「拾芥抄」は内蔵町)から「官厨家」の跡地(拾芥抄)。平安中期以降は勘解由小路かげゆこうじ堀川小路の西の地。

寛永一四年(一六七三)洛中絵図に「橋詰丁」、寛永一八年以前平安城町並図では「西橋詰丁」とみえ、寛永以後万治以前京都全図では「下立売橋詰町」。

堀川に架かる下立売橋は寛永三年九月、後水尾天皇二条城(現中京区)行幸の折に架設された木造高欄擬宝珠付の石柱橋で、明治維新後、地方費による負担に変わり、明治六年(一八七三)石造りに改めた。

西橋詰町
にしはしづめちよう

下京区寺町通五条上ル

南北に通る寺町てらまち(旧東京極大路)を挟む両側町であるが、河原町かわらまち通が斜めに通り町を二分する。東側高瀬川に沿う。

平安京の条坊では、町の西側が左京六条四坊四保一五町東側と同坊三保一四町北東隅の地、町の東側は条坊外。平安中期以降は六条坊門東京極大路の地。平安時代後期、当町西側から西隣の安土あづち町にかけて陰陽家安倍泰親の邸宅があったという(坊目誌)

寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図、及び寛文五年(一六六五)刊「京雀」には「鑓や町」とあるが、寛永一四年洛中絵図には既に「はし詰ノ町」の名もみえる。「鑓や町」の名は「京雀」の「鑓長刀その外品々の物あり」という記述から推察されるし、「はし詰ノ町」は当町南側が五条大橋の西詰にあたることによる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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