虻田村(読み)あぶたむら

日本歴史地名大系 「虻田村」の解説

虻田村
あぶたむら

[現在地名]虻田郡虻田町字栄町さかえちよう・字高砂町たかさごちよう・字三豊みとよ・字入江いりえ・字いずみ・字洞爺湖温泉町とうやこおんせんちよう洞爺とうや村字洞爺町など、後志支庁虻田郡ニセコ町字ニセコなど、真狩まつかり村字真狩など、留寿都るすつ村字留寿都など、喜茂別きもべつ町字喜茂別など、倶知安くつちやん町字あさひなど、京極きようごく町字京極など

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治一五年(一八八二)二月までの村。虻田郡の大部分を占め、村域は現在の洞爺村・ニセコ町・真狩村留寿都村喜茂別町倶知安町京極町に及ぶ広大なもので、西は振苗ふれない村など、東は有珠うす有珠(現伊達市)などに接し、南西は太平洋に臨む。

虻田村
あぶたむら

明治三〇年(一八九七)七月から大正九年(一九二〇)五月までの虻田郡の村。当初の村域は現在の虻田町と虻田郡洞爺とうや村にあたる。明治三三年月浦つきうら八幡神社創立、真言宗亮昌りようしよう(現高野山真言宗)が公称認可。同三四年虻田小学校が虻田第一尋常小学校となり、虻田第二尋常小学校(アイヌ学校)開校、虻田有珠水産組合も設立された(以上「虻田町史」)戸口は同三〇年に六三一戸・三千九五人、同三三年には九八九戸・四千五四六人(道戸口表)

虻田村
あぶたむら

明治一五年(一八八二)二月から同三〇年七月までの虻田郡の村。虻田村と振苗ふれない村が合併して成立し、当初の村域は現在の虻田町および虻田郡洞爺とうや村、後志支庁虻田郡ニセコ町・真狩まつかり村・留寿都るすつ村・喜茂別きもべつ町・倶知安くつちやん町・京極きようごく町に及んだ。明治一五年に福井県出身の松尾知二(開拓使権中主典などを歴任)・万次郎親子が入江いりえ地区に転住して亜麻作りを始め、同二四年には水車利用の亜麻工場が開業。明治一五年虻田郵便局開局、同一七年公立虻田小学校(現虻田小学校)が開校。同二二年いずみ地区にマッチ軸木工場が立地、同二五年黒田勇橘が虻田鉱山鉱床を発見。同二七年洞爺湖畔(現在の字洞爺湖温泉町)に篠原又兵衛が月浦つきうら地区から移り、この地の開拓が始まった。

虻田村
あぶたむら

大正九年(一九二〇)六月から昭和一三年(一九三八)九月までの虻田郡の村。村域は現在の虻田町にあたる。大正一〇年虻田第二尋常小学校が虻田第一尋常小学校に統合されて廃校校舎改築して村役場とした。同一一年賢見神社創設。昭和三年国鉄長輪おさわ(現JR室蘭本線)が開通し、当村では虻田駅(現洞爺駅)が開業。同四年には虻田巡査派出所が設置された(以上「虻田町史」)。同六年の字名改称地番改正により、現在と同じ一四字を編成。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報