荒針村(読み)あらはりむら

日本歴史地名大系 「荒針村」の解説

荒針村
あらはりむら

[現在地名]宇都宮市大谷町おおやまち下荒針町しもあらはりまち西の宮町にしのみやまち

東は駒生こまにゆう村、南は上砥上かみとかみ村・上欠下かみかけしも村と接する南北に長い地域で、北部に台地石山起伏が目立つ。中世までは大谷とよばれた地域で、天正一四年(一五八六)五月二八日の宇都宮国綱官途状写(秋田藩家蔵文書など)に「太谷口」「大谷口」とみえ、国綱は山田左馬允や菊池修理亮らの同口における北条氏直に対する働きを賞している。北条氏直は同年から同一六年の間、関東で支配下に入っていない宇都宮・佐竹両氏攻撃のため、大軍を擁して宇都宮へ攻め込んでいるが(年未詳九月四日「宇都宮隆綱書状写」秋田藩家蔵文書)、その頃と推定される九月二日の壬生高宗書状(中里文書)によれば多勢が「其境御城辺大谷」まで乱入したが、中里神大夫の働きにより撃退したとある。

近世初期は宇都宮藩領。慶安郷帳に田方一千八一石余・畑方三八〇石余とある。元禄郷帳では高一千八〇五石余は旗本下枝・三枝服部・谷・落合の五給。上荒針・中荒針・下荒針・東荒針などと四村に分けて記す史料もある。享保五年(一七二〇)の上荒針村の明細帳(渡辺クニ文書)では、旗本三枝重兵衛知行、高一千石、田方六七町一反余・畑方七七町四反余、家数一〇一(うち百姓七二・水呑二九)、男二八九・女二二九、馬数二六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報