荒田目村(読み)あらためむら

日本歴史地名大系 「荒田目村」の解説

荒田目村
あらためむら

[現在地名]酒田市本楯もとたて

日向につこう川の左岸近くにあり、北は若王寺やこうじ村。新田目村・阿良田目村とも記した。天正一二年(一五八四)と推定される二月六日付の最上義光書状(今井文書)宛先として新田目留守殿がみえる。同氏は武藤氏に属し、新田目城に拠って当地一帯に勢力を張っていた。同一五年の最上義光庄内攻めの際には当地も戦場となった(「板垣河内高名覚書」「平藤仙右衛門高名覚書」飽海郡誌)。同一六年と推定される八月六日の岩屋朝盛書状写(秋田藩家蔵文書)に「自最上多勢被罷出、観音寺ヘ両日、新田目ヘ二日被相動候」とあり、上杉景勝の部将本庄繁長の庄内攻略のとき、最上勢が当村に二日出兵している。慶長一六年(一六一一)の年貢皆済状(飽海郡誌)によると、肝煎大炊助は新田目城主であった今井氏。

荒田目村
あつためむら

[現在地名]いわき市平荒田目たいらあつため

夏井なつい川下流右岸にあり、北対岸は下神谷しもかべや村、西は山崎やまざき村、東は上大越かみおおごえ村。近年は「あらため」と発音されることが多い。文安六年(一四四九)八月二七日の岩城清隆去状(遠藤白川文書)によれば「岩城郡之内あら田の目の郷・上かひやの村・上かたよせの村三ケ所、山野ともに不相残」が菊田きくたの替地として白河殿(結城直朝)に去渡されている。磐前いわさき郡に属した。近世領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領

荒田目村
あらたのめむら

[現在地名]古川市荒田目

多田ただ川に沿う水田地帯の一角にあり、北と東は渋井しぶい村、南は飯川いいがわ村、西は保柳ほやなぎ村に接する。正保郷帳に田四三貫一七六文・畑一貫八六八文とあり、ほかに同所新田七貫七八三文がある。「安永風土記」によれば、田五一貫五〇九文・畑二貫二六三文で、蔵入は一一貫四七六文、給所は四二貫二九六文、人頭二〇人(うち沽却禿六)、家数一九(うち借屋五)、男四六・女三八、馬一三とあり、用水として当村専用のさす橋堰・久根合堰・中江堰・天神堰・神明堰があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報