荒俣村(読み)あらまたむら

日本歴史地名大系 「荒俣村」の解説

荒俣村
あらまたむら

[現在地名]藤島町荒俣

東と南を黒瀬くろせ川が流れ、北は箕升新田みますしんでん村、西は幕野内まくのうち村。上荒俣・中荒俣・下荒俣(宝徳)の三集落よりなる。近世にはそれぞれ肝煎がいて独自の検地帳を保管しており、事実上独立した村の機能を有していた。上荒俣が元村である。元亀四年(一五七三)九月七日、大浦おおら(現鶴岡市)城主武藤義氏が大宝寺だいほうじ(現同上)の時宗長泉ちようせん寺に寄進、安堵した寺領のうちに「荒俣畠壱貫地」がある(「武藤義氏安堵状」長泉寺文書)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高五六一石余、以後庄内藩領。

荒俣村
あらまたむら

[現在地名]黒部市荒俣・大開おおびらき

黒部川が富山湾に注ぐ河口にあり、東は飛騨ひだ村、南は大開と吉田よしだ村。冷泉為広の「越後下向日記」の延徳三年(一四九一)三月一六日条によれば、黒部四十八しじゆうはちヵ瀬を渡渉することを避けて、船路をとった為広は通過した地を「イクシ海、里 アラマタイ」などと記している。寛永一六年(一六三九)富山藩領,万治三年(一六六〇)から加賀藩領。正保郷帳では高一五二石余、田方一〇町余・畑方一反余、新田高三〇〇石余。

荒俣村
あらまたむら

[現在地名]滑川市荒俣

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇端部に位置し、西は高塚たかつか村、北は富山湾に臨む。南端を北陸街道が通る。正保郷帳では高二二二石余、田方一四町五反余・畑方三反、新田高三八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印に荒又村とみえ、草高二九二石、免四ツ、明暦二年(一六五六)の新田高六石(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は藤右衛門、家数一七(百姓一二・頭振五)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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