草生村(読み)くさわむら

日本歴史地名大系 「草生村」の解説

草生村
くさわむら

[現在地名]安濃町草生

きようヶ峰東麓の山間部にあり、安部あべ村の北にあたる。大部分は山地で、東部の谷に集落が点在する。草生という村名は、草深い未開の地を思わせるが、意外に早く開発されたようで、永保二年(一〇八二)五月一〇日大和国崇敬寺牒(「三国地志」所収)に一一世紀後半の当村が現れる。

<資料は省略されています>

これによると、草生村のうち一五条七里と八里、一六条七里と八里にまたがる総計二八町二反余の田地と池一区とが、崇敬すうきよう寺領の草生庄に属していた。崇敬寺は現奈良県桜井さくらい阿部あべに寺跡があり、安倍倉橋麻呂の建立によって「安倍寺」とよばれたことが「東大寺要録」にも記されているが、草生庄は法花長講仏僧供料として勅施されたその荘園であった。ここにみられる地名のうち「靡井」(「なびい」か)、「蒭生」(「こもお」か)、「川村」などは今は失われて伝わらないが、「板糟」については、当村の中央部にある小字板数いたかずがその名残と認められる。ただその付近には条里地割の痕跡が認められないので、条里の復原は困難になっている。

草生村
くそうむら

[現在地名]御津町草生

旭川右岸に位置し、南は金川かながわ村、北は鹿瀬かせ村に接する。寛永備前国絵図に高三四三石余とあり、枝村に久志くじ(師)村があった。「備陽記」では田畑三六町二反余、家数九九・人数七三六、池二。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、田高七五石余・五町五反余、畑高二八七石余・三三町一反余。直高五四九石余で、家老日置元八郎の給地。家数一四二・人数七五九、うち鍛冶一・大工六・木挽三・紺屋一。

草生村
くそうむら

[現在地名]吉井町草生

南を周匝すさい村・黒本くろもと村二村に接する赤坂あかさか北端の村。南西部には大平おおひら山の斜面が広がり、北端を東流する吉井川が南に大きく流れを変える辺りの右岸に沿って、南北に長い平地がある。寛永備前国絵図では高二〇七石余。「備陽記」によれば枝村は上草生かみくそう。田畠一七町六反余、家数四一・人数二五二、池六。文化年間の「岡山藩領手鑑」では枝村新屋敷・上草生。直高二九三石余、家老池田伊賀給地。田方五町三反余・六六石余、畑方一二町二反余・一二一石余、開方田二反余・畑四反余・高三石余、引高四五石余・加損米五斗余・用捨麦九石。河原であるため水田に適さなかったと思われる。

草生村
くさおむら

[現在地名]左京区大原おおはら草生町

東は勝林院しようりんいん来迎院らいこういん、西は静原しずはら、北は百井ももい小出石こでし、南は村の各村と接する。高野たかの川の西に位置し、大原八郷の一。

平安時代末から隠棲の地として知られ、寂光じやつこう院や芹生せりようさとが著名である。

江戸時代以降は主として医師半井家の知行地となり、享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳によれば、石高一四六石三斗七升七合九勺のうち、半井驢庵知行が一四〇石二斗九升八合四勺、次いで来迎院領三石八斗五升三合一勺、勝林院領二石二斗二升六合四勺となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報