茂田井村(読み)もたいむら

日本歴史地名大系 「茂田井村」の解説

茂田井村
もたいむら

[現在地名]三郷市茂田井・三郷・早稲田わせだ

笹塚ささづか村の東に位置し、南は幸房こうぼう村、東は江戸川を挟んで下総国葛飾郡(現千葉県流山市)。村の中ほどを大場おおば川が南流し、古くは村内で江戸川に注いでいたという。文禄(一五九二―九六)の頃、信濃国佐久さく郡茂田井村(現長野県望月町)の榎本藤右衛門が開発し、出身地の村名を付けたという(風土記稿)。慶長一七年(一六一二)伊奈忠治は茂田井新田の藤右衛門に宛てて開発手形を出しており、新田への移住者に対し居住地の堤井堀普請以外の諸役を免除し、開発した田方は一年間無年貢、二年目からは代官見当で年貢を上納、畑方は二年間無年貢で三年目より上納、また旧主の構いなき牢人の移住を許可し、無利子での種貸しを定めるなど、開発を奨励している(武州文書)

茂田井村
もたいむら

[現在地名]望月町茂田井・立科町茂田井

望月もちづき宿と芦田あした宿(現立科町芦田)の中間に位置し、南には蓼科たてしな山の北斜面が迫り、北は開けて観音寺新田かんのんじしんでんから八重原やえばら台地に通じる。

弥生時代の遺跡の分布から、春日かすがや芦田を含めた地域の中心的な位置にあり、村内遺跡からの出土品には平安時代のものと考えられる布目瓦や鐙瓦もある点から、この辺りに一郷が存しても不自然ではない(北佐久郡志)

この辺りは牧場経営から出て土豪化した望月氏の勢力圏にあり、村内の天台宗来迎山無量むりよう寺は、津金つがね(現立科町上房)釈尊しやくそん(現小諸市大久保)などとともに望月牧の周辺にあって、滋野氏一族の庇護を受けたものと考えられる(同書)

茂田井村
もたいむら

[現在地名]鹿北町多久たく

国見くにみ(一〇一八・一メートル)山裾を源に西流する岩野いわの川の最上流域、星原ほしわら山南裾部に立地し、北は筑後矢部やべ(現福岡県八女郡矢部村)、南は多久村に接する。近世山鹿やまが郡中村手永に属し、元禄国絵図に「多久村之内茂田井村」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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