茂市村(読み)もいちむら

日本歴史地名大系 「茂市村」の解説

茂市村
もいちむら

[現在地名]新里村茂市

閉伊川とその支流刈屋かりや川の合流点にあって、北から東は蟇目ひきめ村、老木ろうき(現宮古市)、西から南は刈屋村・腹帯はらたい村。閉伊街道が通る。八幡山尾根に戦国時代末期の鐺倉なべくら館跡がある。館主は田鎖氏の一族茂市氏。茂市刈屋一揆之由来(茂市文書)によれば、天正四年(一五七六)茂市氏は田鎖氏の軍勢に属して、南部氏の臣桜庭安房に味方した刈屋氏の軍勢と戦っており、茂市・刈屋の両大将が討死している。茂市氏の譜(参考諸家系図)によれば閉伊十郎源行光の後胤茂市右近は盛岡藩二代藩主南部利直から当地に二〇〇石を受けている。年月は不詳であるが、当時の百姓高と思われる茂市古人地主覚(茂市文書)に「千苅 荒屋土佐、四百苅 けいれい五郎左衛門、同 野崎孫右衛門、四百五十苅 中村宮内、五百苅 熊野禰宜、三百苅 館の下彦左衛門、四百五十苅 彦右衛門、三百苅 橋場水主、二千苅は茂市殿御手作地のよし」と記す。

茂市村
もいちむら

[現在地名]田子町茂市

熊原くまはら川上流左岸に位置し、鹿角かづの街道に沿う。東は杉本すぎもと村、西は山口やまぐち村、南は遠瀬とおせ村、北は相米そうまい村に接する。戦国時代より三戸南部氏の配下に入り、天正(一五七三―九二)の頃茂市館に茂市氏が居館していた。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に茂市村、六四石余とみえ、同年の郷村帳によれば六四・四二〇石のうち四八・〇九三石が田であった。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には高四九・二八八石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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