花柳寿美(読み)はなやぎすみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「花柳寿美」の意味・わかりやすい解説

花柳寿美
はなやぎすみ

日本舞踊家

如月青子

初世

(1898―1947)本名大橋勇(いさみ)。岐阜県に生まれる。西川流の師匠に入門。1910年(明治43)上京し、花柳徳太郎師事。のち2世花柳寿輔(じゅすけ)門下となり、花柳寿勇(じゅゆう)の名を許される。この間、新橋芸妓(げいぎ)としての15年間があったが、1925年(大正14)寿美と改名し、芸妓は廃業した。翌年「曙(あけぼの)会」をおこし新舞踊運動のスターとして活躍。恵まれた容姿を生かした、新感覚による絢爛(けんらん)たる舞台に特色を発揮した。代表作に『火炎のお七』『吉田御殿』など。

[如月青子]

2世

(1913―2007)初世の養女鈴子。1949年(昭和24)2世を襲名、58年宗岳(そうがく)を名のる。振付け・演出に力を示した。

[如月青子]

3世

(1941― )2世の娘で、初世の孫の萬寿子。1946年(昭和21)に2世花柳寿輔に入門。6世尾上菊五郎(おのえきくごろう)の部屋子となり、尾上菊花を名のる。1958年3世を襲名。優れた感性、技芸を示し、とりわけ新作、創作に実力を発揮。代表的な作品に『百済観音(くだらかんのん)』『妖』などがある。

[如月青子]

『花柳宗岳編『初代花柳寿美三十三回忌追善記念』(1980・三萬寿)』

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改訂新版 世界大百科事典 「花柳寿美」の意味・わかりやすい解説

花柳寿美 (はなやぎすみ)

舞踊家。(1)初世(1898-1947・明治31-昭和22) 本名大橋勇。岐阜県生れ。幼時西川流の師匠に入門。明治末年上京後,新橋に妓籍をおく。2世花柳寿輔門下となり,花柳寿勇の名を許される。1923年舞踊家を志して妓籍を離れ,25年寿美と改名。翌26年〈曙会〉を興し,新舞踊運動のスターとして活躍した。《火炎のお七》《吉田御殿》をはじめ発表作品多数。オーケストラを用い,日本バレエをめざした作品や,新感覚による衣装などで,絢爛(けんらん)たる舞台に特色を発揮した。(2)2世(1913-2007・大正2-平成19)初世の養女。本名大橋鈴子。1949年2世を襲名。58年宗岳を名のる。振付作品多数。(3)3世(1941(昭和16)- )2世の娘で初世の孫。本名大橋万寿子。1958年3世を襲名した。
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世界大百科事典(旧版)内の花柳寿美の言及

【新派】より

…すでに10年に井上正夫は〈新時代劇協会〉をおこしG.B.ショーの《馬盗人》などを上演して新境地を開こうとしていたし,13年には河合武雄が〈公衆劇団〉を結成,また文壇を追われた真山青果が松竹に入社して,亭々生の名で《黒髪物語》や《雲のわかれ路》の作品を作り〈新派〉を支えようとした。16年に高田と秋月,17年に藤沢が没し,〈新派〉は伊井,河合,喜多村のいわゆる〈三頭目時代〉となったが,21年に若い花柳(はなやぎ)章太郎が藤村秀夫,小堀誠,武田正憲,柳永二郎,松本要次郎,大矢市次郎,伊志井寛らと研究劇団として〈新劇座〉を結成,有島武郎《ドモ又の死》や秋田雨雀《国境の夜》の上演をしたり,また井上が《酒中日記》《平将門》を上演するなど一部で意欲的な活動はあったものの,全般には映画や新国劇の人気に押されがちで低調だった。なお,24年にもともと新劇から出発した水谷八重子を中心にした第2次芸術座ができて,27年に本郷座で藤森成吉《何が彼女をさうさせたか》を上演,以降松竹と提携して,いわゆる〈新派〉の一角に加わってきた。…

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