船江村(読み)ふなえむら

日本歴史地名大系 「船江村」の解説

船江村
ふなえむら

[現在地名]伊勢市船江一―四丁目

勢田せた川河口近くの左岸にある。永暦二年(一一六一)二月二二日の佐伯氏命子畠地売券(光明寺古文書)に「箕曲郷下船饗村字三角畠」の地名がみえ、船饗は船江の古名で、「和名抄」記載の箕曲みのわ郷の内であったと考えられる。「吾妻鏡」治承五年(一一八一)一月二一日条に「熊野山悪僧等、去五日以後乱伊勢志摩両国、合戦及度々(中略)今日焼二見浦人家、攻到于四瀬河辺之処、平氏一族関出羽守信兼相具姪伊藤次已下軍兵、相逢于船江辺防戦」と記され、熊野山の僧が伊勢志摩に攻め入り、二見浦ふたみのうら(現度会郡二見町)の人家を焼払った。

船江村
ふなえむら

[現在地名]松阪市船江町

雲出くもず川・三渡みわたり川を渡河し南下する伊勢参宮街道が松坂町にかかる直前にある。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写に「一壱石□廿八貫長とく廿八貫文、五兵衛 壱石 ふない」とみえるのは、その前後に「くろた」(現大黒田町・小黒田町)・「こまかり」(現外五曲町・内五曲町)・「かまた」(現鎌田町)が列挙されているのを考えあわせれば、当地船江のことと推測してよい。

近世は和歌山藩松坂領。寛永一七年(一六四〇)に書写された元和九年(一六二三)検地帳(徳川林政史蔵)によれば、九六四筆(屋敷・居屋敷八六を含む)で、田方は四五町五反余、石高に直して六六二石余であり、畑方は一六町四反余(屋敷・居屋敷を含む)、石高に直して一八八石余であり、この両者に無田の三六石余を加算した村高総計は八八七石余。

船江村
ふなえむら

鎌倉―南北朝期にみえる地名。武庫むこ川下流右岸の今津いまづ付近にあったとみられるが、場所は特定できない。建保五年(一二一七)正月二九日の紀行吉屋敷地売券によると、武庫郡船江村之内西条五条一五里三坪の屋敷地一八〇歩を能米三石で僧良信に売却、良信は嘉禄元年(一二二五)一一月四日に藤原重綱にこの土地田地として能米三石で売却している(僧良信田地売券)。正応五年(一二九二)閏六月一〇日の秦永久名田・船・所従譲状によると、永久が嫡男有若丸に譲渡した田地四反のうち一反は「東船江屋敷」であった。永久は船三艘を所有していることから、船江の地名と港湾機能との関連がうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報