舎人町(読み)とねりまち

日本歴史地名大系 「舎人町」の解説

舎人町
とねりまち

[現在地名]足立区舎人一―六丁目・入谷いりや一―九丁目・舎人公園とねりこうえん・舎人町など

毛長けなが(現毛長川)右岸に位置し、舎人領一〇ヵ町村の本村(風土記稿)。東は古千谷こぢや村、新里につさと(現埼玉県草加市)、南は入谷いりや村など、西は本郷ほんごう村・江戸袋えどぶくろ(現埼玉県川口市)赤山あかやま(現同上)に至る道(岩槻道あるいは赤山道ともいう)が通る。戦国期には舎人郷とよばれた。田園簿に舎人村とみえ、田一千二九石余・畑一五七石余。寛永六年(一六二九)検地が実施されたと伝えるが(風土記稿)、伝来するのは寛文四年(一六六四)の見取場検地および元禄八年(一六九五)に施行され同一〇年に交付された幕府領総検地の検地帳である(吉岡家文書)元禄検地の際、当地の西門さいもん寺には検地役人の会所が設けられ、町内の寺院や百姓宅には検地役人を勤めた下野黒羽藩大関家の家臣団が分宿した(元禄八年「覚」同文書)。天保八年(一八三七)の年貢皆済目録(同文書)によると高九六五石余、本途物成は田方一三三石余・畑方永二八貫六一五文余。

舎人町
とねりまち

[現在地名]東区いずみ三丁目

東側の道路を隔てて萱屋かや(現代官町)と向い合っていた。武家屋敷街の一つであるが、道路沿いに町屋もあった。町名は藩祖徳川義直が家臣の舎人某に命じ、現地で付けさせたと伝えられるが、舎人八左衛門の住居があったためとする説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報