氷川神社(読み)ひかわじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「氷川神社」の意味・読み・例文・類語

ひかわ‐じんじゃ ひかは‥【氷川神社】

[一] 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町にある神社。旧官幣大社。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命、大己貴命(おおなむちのみこと)孝昭天皇の代に出雲より勧請したと伝えられる。源頼朝北条氏徳川氏などが厚く信仰。武蔵国一の宮。
[二] 東京都港区赤坂にある神社。旧府社。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、大己貴命。天武天皇が神祭を行なったと伝えられる。徳川吉宗が産土神(うぶすながみ)として崇敬し、享保一四年(一七二九)現在地に造営。赤坂氷川神社

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デジタル大辞泉 「氷川神社」の意味・読み・例文・類語

ひかわ‐じんじゃ〔ひかは‐〕【氷川神社】

さいたま市大宮区にある神社。旧官幣大社。祭神は須佐之男命すさのおのみことほか二神。埼玉県・東京都に多い氷川神社の総本社。関東武家の崇敬を集めた。武蔵国一の宮

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日本歴史地名大系 「氷川神社」の解説

氷川神社
ひかわじんじや

[現在地名]大宮市高鼻町

しば川右岸の大宮台地上にあり、中央部と北部に見沼の低地が深く入込んでいる。境内地は現在約三万坪。明治初期までは背後に広がる見沼原などを含め約九万坪あったが、境内地背後にある池や森など約三万五千坪が明治一七年(一八八四)に埼玉県に寄付され大宮公園となった。旧官幣大社。祭神については諸説がある。南北朝期の神道学者吉田兼永は日本武尊が東征の折、素盞嗚尊を勧請したとする(神名帳頭註)。また「大日本神祇史」も素盞嗚尊とする。「風土記稿」は男体なんたい社・女体によたい社・簸王子ひおうじ社の三社を載せ、男体社は祭神素盞嗚尊、相殿に伊弉諾尊・日本武尊・大己貴命の三神を祀る。女体社は祭神稲田姫命、相殿に天照太神宮・伊諾冉尊・三穂津媛命・橘媛命の四神を祀る。簸王子社は祭神大己貴命。大中臣国清が至徳二年(一三八五)に記したという大宮氷川太明神縁起之書(神道大系)には男体社に伊弉諾尊、女体社に伊弉冉尊、簸王子(火王子)社に軻遇突智尊を祀るとある。天保四年(一八三三)当社神主角井惟臣の記した氷川大宮縁起(埼玉叢書)により、現在は祭神を素盞嗚尊・稲田姫尊・大己貴尊の三神とする。元来「延喜式」神名帳に載る神は氷川神一座で、氷川に座す神一神を祀っていた。氷川神の性格は見沼に宿る水の霊を崇拝することから祭祀が始められ、これがのちに農耕神として信仰されるようになる。現在氷川神社の神池は見沼の名残で、社殿近くのじやの池は沼の水源と考えられる。氷川神社の武蔵国内の分布は、「風土記稿」によると豊島としま郡に一二社、葛飾郡に二社、多摩郡に一七社、荏原えばら郡に七社、新座にいくら郡に一四社、足立郡に一四二社、入間いるま郡に三七社、高麗こま郡に一社、比企郡に二八社、横見よこみ郡に八社、埼玉郡に八社、大里郡に二社、男衾おぶすま郡に二社、幡羅はら郡に一社の計二八一社。氷川神社は武蔵国においては綾瀬川を東の限界とし、南は多摩川を限界とした区域に多く分布する。

〔古代・中世〕

天平神護二年(七六六)七月二四日、朝廷から封戸三戸が寄せられており、武蔵国内で封戸の寄進を受けた神社は氷川神社だけであった(新抄格勅符抄)。「延喜式」神名帳には足立郡四座のなかに「氷川神社名神大。月次新嘗」とみえる。神階の授与は天安三年(八五九)正月二七日従五位上、貞観五年(八六三)六月八日正五位下、同七年一二月二一日従四位下、同一一年一一月一九日正四位下、元慶二年(八七八)一二月二日正四位上に叙せられている(三代実録)

氷川神社
ひかわじんじや

[現在地名]川越市宮下町

川越台地北東端上に鎮座。祭神素盞嗚尊・奇稲田姫尊・大己貴尊・手摩乳尊・脚摩乳尊。旧県社。創建は氾濫を繰返した入間いるま川を神聖視し、出雲の川にこれを見立て、現大宮市の氷川神社を勧請したと伝える。正徳元年(一七一一)の氷川大明神縁起(氷川神社文書)によれば、欽明天皇時代入間川中において夜々光るものがあり、これは足立郡氷川大明神の霊光だとして当地に一社を設けて里宮と定めたという。「河越記」に「日川の明神」として「氏人惣社にあがめて往詣する事さりもあへす」と記している。

社領は文禄四年(一五九五)二月二七日川越城主酒井忠利から杉下すぎした村で上田一反を寄進されたのをはじめ、慶長六年(一六〇一)には本多刑部左衛門から松郷まつごう寺井伊佐沼てらいいさぬま両村で四反余を寄せられ、寛永一八年(一六四一)松平信綱から寺井伊佐沼で田三反、元禄元年(一六八八)松平信輝から松郷で三石余を寄進されている(「酒井忠利寄進状」氷川神社文書など)。以降歴代川越藩主から社領一五石余・社地四反余を安堵された。

氷川神社
ひかわじんじや

[現在地名]三国町北本

祭神は素盞嗚すさのお尊。旧村社。社伝によれば、「延喜式」神名帳にみえる坂井さかい枚岡ひらおか神社であるとされ、もと字枚岡に鎮座していたと伝える。元和四年(一六一八)に一度遷座し、万治二年(一六五九)現在地に移ったという。近世には牛頭天王社とよばれ、三国みくに湊の惣社山王社(現三国神社)とともに信仰された。三国湊新古名所記(浄願寺蔵)に「上街八町八百余家ノ者トモノ産神ノ山王山同様に崇ルノ社」とみえる。安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によれば、牛頭天王・春日明神・弁才天を祭神としており、祭礼は六月七―一四日。

氷川神社
ひかわじんじや

[現在地名]港区赤坂六丁目

赤坂台地の南部丘陵に鎮座。祭神は素戔嗚命・大己貴命・奇稲田姫命・天忍日命。旧府社。創立年代未詳。古くは氷川明神と称した。もとは一ッ木ひとつぎ村に鎮座していたが、享保一四年(一七二九)八代将軍徳川吉宗が紀州徳川家の産土神として赤坂今井いまい台の現在地に移して修造した(「江戸惣鹿子」・寺社書上など)。赤坂の総鎮守で、別当は聖護院派の触頭大乗だいじよう院。祭礼は隔年の六月一五日、永田馬場ながたばば山王権現(現千代田区日枝神社)と隔年に行った。

氷川神社
ひかわじんじや

[現在地名]練馬区氷川台四丁目

旧郷社。祭神は須佐之男命。下練馬村の鎮守であった。社伝によれば、長禄元年(一四五七)渋川義鏡(堀越公方の探題)が古河公方足利成氏との合戦の最中、下練馬で石神井しやくじい川を渡ろうとしたところ泉(お浜井戸)を発見し、兵を休めて須佐之男命を祀り、武運長久を祈ったことに始まるという。毎年四月九日の春祭には桜台さくらだい六丁目のお浜井戸の地に神輿が渡御し、鶴の舞や田遊の行事を奉納する。

氷川神社
ひかわじんじや

[現在地名]新冠郡新冠町字東町

新冠町の市街地の南側に位置する。祭神は素戔嗚尊で、旧郷社。例祭日は八月一日。一八六〇年(万延元年)ニイカップ場所の会所詰合の役人、場所請負人・場所支配人が協議のうえ、武蔵国一宮氷川神社(現埼玉県さいたま市)の分霊を勧請し、高江たかえに祀ったことに始まる。翌六一年(文久元年)には京都から神像を取寄せ、天下泰平・国土豊饒・場所漁業安全の氏神とした(新冠町史)。なおニイカップ場所の会所では、それまで弁天社を祀っていた(玉虫「入北記」、「東行漫筆」文化六年四月一二日条など)

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改訂新版 世界大百科事典 「氷川神社」の意味・わかりやすい解説

氷川神社 (ひかわじんじゃ)

埼玉県さいたま市大宮区高鼻町に鎮座。須佐之男命,稲田姫命,大己貴(おおなむち)命をまつる。創建年代不詳。社伝では孝昭天皇3年に出雲より勧請して創建したというが,地勢的に見沼を見下ろす台地突端部に位置し,古く当地方開発当初よりの社とみられる。766年(天平神護2)神封3戸を寄せられ,神階は859年(貞観1)従五位上,878年(元慶2)正四位上に叙された。延喜の制で名神大社,祈年・月次・新嘗の奉幣にあずかり,のち武蔵国一宮とされる。源頼朝は神領を寄進,執権北条氏以下も崇敬,後北条氏も神領を安堵した。徳川家康は江戸開幕ののちしばしば社参して朱印領300石を寄進,以後歴代将軍も崇敬,厳重に祭祀されてきた。1868年(明治1)明治天皇は遷都のあと当社を武蔵国鎮守とし,行幸して親祭,以後,年ごとに奉幣使を遣わすこととした。旧官幣大社。例祭8月1日で,勅使が差遣され,東遊(あずまあそび)の奉納があり,神輿渡御しての橋上祭(きようじようさい)が厳粛になされる一方,市内には山車,神輿が練り出してにぎわう。そのほか,4月5,6,7日の献花祭,6月5日の粽(ちまき)神事,12月10日の大湯祭(だいとうさい)などの特殊神事がよく残されている。なお氷川神社は当社を中心に埼玉県,東京都,神奈川県下に数百社点在するが,いずれも当社を勧請した神社とみてよい。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「氷川神社」の意味・わかりやすい解説

氷川神社
ひかわじんじゃ

埼玉県さいたま市大宮区高鼻町に鎮座。延喜式名神大社(えんぎしきみょうじんたいしゃ)で武蔵(むさし)国一宮(いちのみや)、旧官幣大社。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫(いなだひめ)命、大己貴(おおなむち)命の三柱。もと男体(なんたい)社、女体(にょたい)社、簸王子(ひおうじ)社と称する三神殿があり、順位と祭神をめぐる論争もあったが、現在は一社殿となっている。氷川は出雲(いずも)の簸川(ひのかわ)に通じるとされ、武蔵国造(くにのみやつこ)は出雲国造と同族のため、当地方の開拓が出雲一族によるもので、当社も杵築(きづき)大社を勧請(かんじょう)したものという。氷川社は元荒川と多摩川を東西の境にして広く分布し、現在でも埼玉県に162社、東京都に59社を数える。1869年(明治2)の東京遷都にあたり、京都の賀茂(かも)神社に倣って首都の北方鎮守に当社が選ばれ勅祭社となった。例大祭は8月1日で勅使参向と東遊(あずまあそび)の奉納がある。12月10日の大湯祭(だいとうさい)は、百味膳(ひゃくみぜん)と称する献供の特殊神事で有名だが、また本社祭神の大己貴命(大国(だいこく)様)と摂社祭神の少彦名(すくなひこな)命(恵毘寿(えびす)様)の神影や開運福徳の熊手(くまで)も授かる十日市でにぎわう。

[薗田 稔]


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百科事典マイペディア 「氷川神社」の意味・わかりやすい解説

氷川神社【ひかわじんじゃ】

埼玉県さいたま市大宮区高鼻町に鎮座。旧官幣大社。素戔嗚(すさのお)尊,大己貴(おおなむち)命,奇稲田姫命などをまつる。創建は孝昭天皇の時出雲国氷ノ川から杵築(きづき)大社(出雲大社)を勧請したものと伝える。延喜式内の名神大社とされ,武蔵国の一宮で,全国氷川神社の総本社。明治天皇は東京奠都(てんと)に当たり,桓武天皇が賀茂社に奉幣した例にならい,毎年奉幣することを定めた。例祭8月1日には勅使の奉幣がある。また大湯祭(12月10日)では盛大な年の市が立つ。
→関連項目大宮[市]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「氷川神社」の解説

氷川神社
ひかわじんじゃ

氷川大明神とも。埼玉県さいたま市大宮区高鼻町に鎮座。式内社・武蔵国一宮。旧官幣大社。祭神は須佐之男(すさのお)命・稲田姫命・大己貴(おおなむち)命。766年(天平神護2)神戸3戸があてられた。878年(元慶2)正四位上。中世以降,源頼朝・後北条氏・徳川氏の崇敬をうけた。武蔵野台地各地に勧請され,元荒川と多摩川の間の地域に同名社が200以上存在する。例祭は8月1日。12月10日の大湯(だいとう)祭は十日祭(とおかまち)といい,酉の市がたつ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「氷川神社」の意味・わかりやすい解説

氷川神社
ひかわじんじゃ

埼玉県さいたま市高鼻町に鎮座する元官幣大社。氷川大明神ともいう。武蔵国一の宮。祭神はスサノオノミコト,オオナムチノミコト,クシナダヒメノミコト。例祭8月1日。関東地方を中心に多くの分社がある。

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事典 日本の地域遺産 「氷川神社」の解説

氷川神社

(東京都練馬区豊玉南2-15)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

氷川神社

(東京都練馬区高野台1-16)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

デジタル大辞泉プラス 「氷川神社」の解説

氷川神社

埼玉県さいたま市大宮区にある神社。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなたひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)。武蔵国一之宮。

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