興国寺跡(読み)こうこくじあと

日本歴史地名大系 「興国寺跡」の解説

興国寺跡
こうこくじあと

[現在地名]豊岡市三坂町

郭外たから谷の地に元禄年間(一六八八―一七〇四)創建木内きなし村の満願まんがん寺の名跡を得て大雲山、あるいは所在地名により宝渓山と号した。本尊釈迦如来。当時、但馬随一の大寺と称されたと伝える。済家(臨済)宗萬福寺派(のちに黄檗宗)で、萬福まんぷく(現京都府宇治市)塔頭天真院の直末として萬福寺五世高泉を開山、豊岡藩主京極家二代目高住を開基とする(「黄檗山萬福寺派下寺院牒」天真院蔵)。寛文八年(一六六八)京極家が丹後国田辺たなべ(現京都府舞鶴市)から入封するとき、丹後時代の支藩の立場を脱し、城主として築城できるとの幕府の示唆により領地替に応じたと伝えているが、城地修築を許可されない不満を高住が藩寺造営に向けたという。

興国寺跡
こうこくじあと

[現在地名]鹿児島市冷水

比丘尼びくに坂バス停の上手に位置した寺院。太平山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。福昌寺末。明応五年(一四九六)島津忠昌が福昌寺八世泰雲守を開山に迎え、現稲荷いなり町の地に創建された(「島津忠昌譜」旧記雑録など)。永正五年(一五〇八)寺地大興だいこう寺が創建されることになり、近世鹿児島城の御厩おんまやの山側に移された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報