美濃山新開(読み)みのやましんかい

日本歴史地名大系 「美濃山新開」の解説

美濃山新開
みのやましんかい

[現在地名]八幡市美濃山〈荒坂あらさかいえまえいちたにもとうま大塚おおつか狐谷きつねだに御毛通ごけどおり千原谷ちはらだに出口でぐち出島でじま中尾なかお西にしくち野神のがみ・ヒルづか古寺ふるでら細谷ほそだにみや宮道みやみち御幸谷みゆきだに

八幡南端の丘陵部、金振かなぶり志水しみず町内南山ほらヶ峠の南東一帯である。丘陵は南西部は河内国長尾ながお(現大阪府枚方市)に接し、南東部は松井まつい(現綴喜郡田辺町)に隣する。内里うちさと村と戸津とうづ村に接する北辺山麓を、高野こうや街道から分岐した奈良街道が通る。「山州名跡志」は「美濃山 在志水東、男山伝曰、後鳥羽院愛女、美濃局住此所、当所善法寺光清女」と地名伝説を記す。

美濃山の開発は、元禄八年(一六九五)、享保一二年(一七二七)、宝暦元年(一七五一)の三回にわたって企てられた。元禄八年の開発計画は摂津国山崎やまざき(現大阪府三島郡島本町)万右衛門と広瀬ひろせ(同町)新右衛門の両名から代官小堀藤三郎に願い出たものであるが、これに対して内里・岩田いわた戸津松井の四ヵ村連名で開発許可反対の願書が提出され、中止された(美濃山区有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報