網津村(読み)おうづむら

日本歴史地名大系 「網津村」の解説

網津村
おうづむら

[現在地名]川内市網津町・港町みなとちよう水引町みずひきちよう

水引草道くさみち村の西、川内川河口北岸を占める。北は高城たき湯田ゆだ村、西は海に面し、南は川内川を隔てて薩摩郡高江たかえ久見崎ぐみざき村。北方から網津川が南へ、東方から草道川が南西流して川内川に入る。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる網津駅の比定地とされる。南部川内川に面した京泊きようどまりは薩摩国の国津であったとも考えられる。

永和四年(一三七八)一二月一九日の真宗譲状(旧記雑録)高城郡の「網津内井尻壱町」がみえ、相伝の所領である同所などが真宗から釈迦王に譲与された。真宗は高城重豊、釈迦王とはその次男重貴のことである(「高城氏系図」川内市史)。同所は応永三一年(一四二四)一〇月二六日、しん正からかめ王に譲与された(「しん正譲状」旧記雑録)。しん正は高城重頼(真勝)と思われ、かめ王はその子重政の童名であろうか。

網津村
あみづむら

[現在地名]宇土市網津町

東は城塚じようづか村、西は下網津しもあみづ村、南は網引あびく村、北西笠岩かさいわ村に接する。北側はやや平坦で網津川が北流する。村の北東直築すぐつき中割ちゆうのわり、南に藤迫ふじのさこ、北西に長部田ながべだ深迫ふかさこなどの字地がみえる(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は松山手永に属した。正保郷帳によれば田方六九一石五斗余で「水損所 はへ山有」とあり、畠方二六四石二斗余で「芝山有」とある。「国誌」に「里俗上網津村ト云七面村平原村潟村馬門村割井村等小村有」とあり、駿馬を生産した藩営宇土牧山の地とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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