糸我坂(読み)いとがざか

日本歴史地名大系 「糸我坂」の解説

糸我坂
いとがざか

熊野街道が有田川を渡河、中番なかばん集落を抜け南方吉川よしかわ(現有田郡湯浅町)へ越す約一・五キロの坂道。「万葉集」巻七に

<資料は省略されています>

と詠まれて以来数多くの詠歌があり、「糸鹿山」として歌枕となる。なお「あて」(安諦)は有田の古名。

院政期、上皇公卿熊野参詣が盛んになるに伴い、日記に関連記事がみられるようになる。「為房卿記」永保元年(一〇八一)九月二七日条によれば藤原為房は宮原みやはら庄で宿泊しているので当地を通っているのは確かだが、糸我坂には言及していない。「中右記」の著者藤原宗忠も宮原庄に宿をとったらしく、天仁二年(一一〇九)一〇月一八日条に「鶏鳴之後出宿、残月之前漸行路、先渡有田河借橋、此間天明、次登伊止賀坂」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報