粟田村(読み)あわたむら

日本歴史地名大系 「粟田村」の解説

粟田村
あわたむら

[現在地名]東城町粟田

森脇もりわき村の南に位置し、東は備中国上神代かみこうじろ村・矢田やだ村・畑木はたき(現岡山県阿哲郡哲西町)と接する。森脇村から流れてくる千鳥ちどり川は、井河内いごうち川などを合わせて粟田川となって村の中央部を南流し、南の川西かわにし村に流れる。集落は粟田川やその支流に沿って開けた平地の周辺に散在。古く砂鉄採取のための鉄穴流しによって開かれた村と考えられ、村内北部・東部一帯に鉄穴流しによって生じた急崖・残丘など起伏の激しい不自然な山容が見られる。

永正一四年(一五一七)一二月一八日付の賀陽院大光明寺領諸国所々目録案(田中教忠氏旧蔵文書)に「同国(備後)奴可東条内伊瀬村半分事」がみえ、粟田村東部の伊瀬いぜの地は室町時代末期には村として独立し、荘園権益の半分が当地南に隣接する福代ふくしろ郷とともに京都伏見の大光明ふしみのだいこうみよう寺領となっていた。

粟田村
あわたむら

[現在地名]鳴門市北灘町粟田きたなだちようあわた

櫛木くしき村の西にある。北灘八ヵ村のうち。中央をほぼ北に粟田川が流れ、谷の周辺部に狭い平野が開ける。北は播磨灘に面し、海岸沿いに櫛木村から西の大浦おおうら村に北灘道が通る。粟田川を南にさかのぼり、峠を越えて板東谷ばんどうだに川上流の中谷なかたに川沿いの道を下り板東村に至る道もあった。慶長二年(一五九七)の分限帳には阿波田村とみえ、五八石余が益田内膳丞知行分。正保国絵図には粟田村とあり、高五八石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田四七石余・畠一〇石余、芝山注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では一九八石余が蔵入地。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高二五四石余。

粟田村
あわたむら

[現在地名]富山市中島なかじま五丁目

神通川右岸、集落南を赤江あかえ川が流れ、村の西方で神通川に合流している。赤江川対岸は富山藩領奥田中島おくだなかじま村、東は粟島あわじま村、北は広田中島ひろたなかじま村。粟島村との間に富山城下東岩瀬ひがしいわせ町を結ぶ岩瀬街道が通る。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高七九石、免三ツ三歩、小物成は猟船櫂役五匁。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高・免とも変わらないが、猟船櫂役五匁は退転している(三箇国高物成帳)

粟田村
あわだむら

[現在地名]千代田村粟田

恋瀬こいせ川左岸にあり、西は高倉たかくら村。天正末期に佐竹氏の支配下に入り、慶長七年(一六〇二)以後江戸時代を通じて志筑本堂氏領。元禄郷帳の村高は二六六石余、文政一一年(一八二八)の戸数一三・人数七四(「三十六ケ村家数人数之覚」豊崎家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報