粟津庄・粟津別保(読み)あわづのしよう・あわづべつぽ

日本歴史地名大系 「粟津庄・粟津別保」の解説

粟津庄・粟津別保
あわづのしよう・あわづべつぽ

中世、粟津には粟津橋本あわづはしもと御厨のほかに粟津庄・粟津橋本五箇庄・粟津別保・膳所中庄が成立していた。

〔粟津橋本五箇庄〕

大治元年(一一二六)五月二三日の蔵人所牒案(京都御所東山文庫記録)に内膳司領として「粟津橋下五ケ庄」とみえる。応安元年(一三六八)五月内膳司供御人の当庄などの公事の知行を貞治四年(一三六五)閏九月一〇日の勅裁によって認めている(同月一二日「泰朝奉書」京都御所東山文庫記録)。永享五年(一四三三)七月、「粟津五箇庄土民」は幕府から勢多せた橋の警固を命じられている(同月二五日「足利義教御判御教書」園城寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報