第2次アヘン戦争(読み)だいにじあへんせんそう

改訂新版 世界大百科事典 「第2次アヘン戦争」の意味・わかりやすい解説

第2次アヘン戦争 (だいにじあへんせんそう)

アヘン戦争ののち,アロー号事件を発端として起こったイギリス・フランス連合軍による中国侵攻戦争。アロー戦争,アロー号事件ともいう。1856年(咸豊6)10月8日,広東前面の珠江に停泊していた,香港船籍,中国人所有のローチャ船アロー号(実際は船籍期限が切れていた)のイギリス国旗が中国兵によって引き下ろされ,船員は海賊容疑で拉致された。当時,中国・イギリス間の条約改訂交渉が進捗を見せておらず,イギリスの中国駐在公使兼香港総督J.ボーリングと広東領事H.S.パークスは,アロー号問題を強引に〈事件〉にして本国開戦を促し,両広総督葉名琛(ようめいちん)(1807-59)との交渉を決裂させた。広東周辺では反英運動が高まり,他方,本国のパーマストン内閣は開戦を決定したが,翌年2月下院でR.コブデンの政府反対決議が可決され,パーマストンは解散,総選挙によって開戦を強行した。5月にはエルギン伯Lord Elginを全権とする将兵約5000名が中国に向かった(途中この軍隊はインド大反乱すなわちセポイの反乱の鎮定に加わった)。フランスのナポレオン3世は,カトリック神父シャプドレーヌが広西省西林で殺害された事件を理由に,グロを全権として共同出兵した。アメリカとロシアは共同出兵はせず,条約改訂交渉に参加する方針をとった。このうちロシアは,シベリア開発を積極的に進めており,中国と東部国境画定交渉を行っていた。

1857年末,イギリス・フランス連合軍は広東を占領して葉名琛を捕虜とした(葉名琛はカルカッタへ送られ,翌年客死した。また,広東では61年まで,傀儡かいらい)政権を介した占領行政が敷かれた)。連合軍は北上し,4月末から大沽タークー)で交渉が行われたが,直隷総督譚廷襄が〈全権〉を持つか否かをめぐって決裂し,連合軍は天津にまで進み,6月にイギリス,フランス,アメリカ,ロシア4ヵ国は武力を背景として欽差大臣桂良,ファシャナ(花沙納)と交渉を行い,天津条約が結ばれた。また前月にロシアは璦琿(あいぐん)条約を結び,アムール川(黒竜江)北岸をロシア領とし,ウスリー川(烏蘇里江)右岸は両国の共同管理とした。翌58年6月,天津条約の規定に基づき,北京批准書を交換するためにイギリス・フランス両公使は大沽沖に至った。しかし,北塘からの上陸通告を無視して大沽に進入したため,大沽砲台の砲撃によって撃退された。

イギリスとフランスは,大沽での事件の復讐をするため,60年8月再度エルギン,グロが2万の軍隊を率いて北塘に上陸した。大沽砲台を落とした後,天津,次いで通州と交渉を進めたが決裂し,通州ではパークスほか約40名が中国の捕虜となった。当時北京郊外の円明園にいた咸豊帝は熱河に逃れ,10月に連合軍は円明園に侵入し,破壊と略奪をほしいままにした。10月20日,欽差大臣恭親王はイギリス,フランスの最後通牒を受諾し,中英・中仏北京条約が結ばれた。北京条約は,58年の天津条約に基づいていたが,それに加え,賠償金をイギリス,フランスそれぞれ800万両(テール)に増額し,天津の開港,中国人の海外渡航許可,九竜地区をイギリスに割譲することなどが定められた。こうして1840年以来20年のあいだに中国は2度にわたって外国勢力の侵略を受けた結果,半植民地への道を強いられていくが,第2次アヘン戦争はまさにその道程を決定づけたものといえよう。
アヘン戦争
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第2次アヘン戦争【だいにじアヘンせんそう】

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