笠間村(読み)かさまむら

日本歴史地名大系 「笠間村」の解説

笠間村
かさまむら

[現在地名]戸塚区笠間町

東は岩瀬いわせ村、南は大船おおふな村、南西岡本おかもと村および城廻しろめぐり(以上現鎌倉市)飛地、西は長尾台ながおだい村、北は飯島いいじま村・小菅谷こすがや村に接する。今泉いまいずみ川が南隅を流れ、いたち川が北境をめぐり、柏尾かしお川が西辺を限る。扇田おうぎだ堀は北東の字扇田から川の水を引き南西に流れる。鎌倉道が小菅谷村から入り、岩瀬村境を通って大船村に通じる。

建武二年(一三三五)三月一八日の新阿弥陀堂供僧以下料田坪付注文(県史三)に讃岐僧都行弁分として「三段笠間」、明教分として「三段曾利町」とあり、証菩提しようぼだい寺の新阿弥陀堂供僧料田があった。

笠間村
かさまむら

[現在地名]榛原町大字笠間

女寄めより峠東方、笠間川発源地に立地する谷間集落。天平二〇年(七四八)の写書所解(正倉院文書)に「大倭国宇郡笠間郷戸主忍坂忌寸乙万呂」、久寿三年(一一五六)の藤原友次畠売券(沢氏古文書)に「在大和国宇郡笠間郷之内寺垣内之東畠也」とある。中世には笠間庄があり、近世は式上郡に属し、慶長郷帳の村高六七二・五八石。慶長五年(一六〇〇)以降織田有楽斎領。元和元年(一六一五)以降柳本藩(織田尚長)領、廃藩置県に至る。「柳本織田家記録」の「有楽公より尚長公江御譲御家頼格式姓名知行高」によると笠間村の内二〇〇石は給人溝口治左衛門に、一五〇石は給人妹尾勘右衛門に分与されて現地支配の形をとっていた。

笠間村
かさまむら

[現在地名]松任市笠間町・美沢野町みさわのまち西美沢野町にしみさわのまち・西美沢野一丁目

黒瀬くろせ村の南、手取川下流域に広がる扇状地の扇端部にあり、村の北側を山島やまじま用水、南側を大慶寺だいぎようじ用水が西流。木曾きそ街道が通る。古代の石川郡笠間郷(和名抄)の遺称地。式内社とされる笠間神社があり、中世には一帯に笠間西保が成立していた。正保郷帳には笠間村・見徳寺けんとくじ村が併記され、高一千二〇七石余、田方七八町一反余・畑方二町三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(三箇国高物成帳)や同年間の高免付給人帳には見徳寺村とみえ、高一千二三五石、免五ツ三歩、小物成はなし。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報