竹本播磨少掾(読み)たけもとはりまのしょうじょう

精選版 日本国語大辞典 「竹本播磨少掾」の意味・読み・例文・類語

たけもと‐はりまのしょうじょう【竹本播磨少掾】

義太夫節太夫大坂の人。竹本筑後掾門弟竹本政太夫から二世竹本義太夫襲名享保二〇年(一七三五)に竹本上総少掾、元文二年(一七三七)に竹本播磨少掾となる。小音悪声であったが、人物の細かい情合、性格表現に新境地を開いた。元祿四~延享元年(一六九一‐一七四四

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朝日日本歴史人物事典 「竹本播磨少掾」の解説

竹本播磨少掾

没年:延享1.7.25(1744.9.1)
生年:元禄4(1691)
江戸中期の義太夫節の太夫。本名紅屋長四郎。幼少のころから音曲を好み,竹本義太夫(筑後掾)に入門したが,小音ゆえに竹本座出演を許されず,やむなく若竹政太夫と名乗って豊竹座へ出勤。その語り口を聞いて筑後掾が呼び戻したといわれ,正徳2(1712)年,竹本座へ初出勤。4年に筑後掾が64歳で亡くなると後継者問題が起こるが,竹本座は弱冠25歳の政太夫に竹本姓を名乗らせ,翌年11月「国性爺合戦」の三段目切を語らせた。これが興行的にも3年越し,17カ月のロングランを記録して成功,竹本政太夫は名実共に筑後掾の後継者として位置付けられた。政太夫は享保から寛保期(18世紀前半)の竹本座の中心的存在として活躍,享保19(1734)年,一時竹本義太夫(筑前掾の子を2代目とすれば3代目か)を名乗るが,翌20年,竹本上総少掾藤原喜教を受領,のちに再受領して竹本播磨少掾藤原喜教を名乗った。小音,悪声という欠点を,作品理解を深め,文章の真意を語り生かすことで克服したといわれ,筑後掾の伝承曲が廃絶してしまっている現在,竹本座系(西風)の現行義太夫節の様式を確立した人物としての評価が高い。播磨少掾の口伝を聞き書きの形でまとめたものに順四軒編著『音曲口伝書』(1773)がある。<参考文献>『近世芸道論』(日本思想大系61巻)

(桜井弘)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹本播磨少掾」の意味・わかりやすい解説

竹本播磨少掾
たけもとはりまのしょうじょう

竹本政太夫

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世界大百科事典(旧版)内の竹本播磨少掾の言及

【音曲口伝書】より

…義太夫節の伝書。内題は《竹本播磨少掾(はりまのしようじよう)口伝》。筆者は順四軒(じゆんしけん)。…

【義太夫節】より

…日本古典音楽の種目。竹本義太夫が創始した浄瑠璃の流派。人形芝居の音楽として17世紀後半に成立し,幕末期以後は文楽人形浄瑠璃の音楽として,ひろく親しまれてきた。また,素浄瑠璃として,音楽だけを演奏する場合もある。ふつう浄瑠璃を語る太夫1人,三味線1人で演奏するが,掛合といって大勢で演じたり,箏,胡弓,八雲琴や,ツレ弾きの三味線が加わる曲もある。
[歴史]
 1684年(貞享1),竹本義太夫(筑後掾)が大坂道頓堀に竹本座を創設して,独立興行に踏み出したときにはじまる。…

【竹本政太夫】より

…2年後に竹本座へ出演して和歌竹政太夫と改名,15年(正徳5)に竹本政太夫となる。のち2世竹本義太夫(3世説もある)や竹本上総少掾を経て,37年(元文2)に竹本播磨少掾を再受領した。小音ながらも喜怒哀楽の情をよく語り,浄瑠璃中興の祖といわれた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」