竹本義太夫(読み)たけもとぎだゆう

精選版 日本国語大辞典 「竹本義太夫」の意味・読み・例文・類語

たけもと‐ぎだゆう【竹本義太夫】

浄瑠璃の太夫。義太夫節の祖。本名五郎兵衛。摂津国(大阪府)の人。はじめ清水理兵衛につき播磨節を学ぶ。延宝五年(一六七七)京都の宇治座で嘉太夫(加賀掾)のワキを語って好評を得た。貞享二年(一六八五)頃大坂道頓堀に竹本座の櫓(やぐら)をあげ、竹本義太夫を名乗る。近松門左衛門の作品を多く上演し、義太夫節を確立して、古浄瑠璃に対する当流(新)浄瑠璃の開祖となった。元祿一四年(一七〇一)竹本筑後少掾を受領。慶安四~正徳四年(一六五一‐一七一四

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デジタル大辞泉 「竹本義太夫」の意味・読み・例文・類語

たけもと‐ぎだゆう〔‐ギダイフ〕【竹本義太夫】

(初世)[1651~1714]浄瑠璃の太夫。義太夫節の始祖。大坂の人。本名、五郎兵衛。初め清水きよみず理兵衛に播磨はりまを学んで清水理太夫と名のったが、貞享元年(1684)大坂に竹本座を開設して竹本義太夫を名のり、元禄11年(1698)ごろに受領して竹本筑後掾ちくごのじょう藤原博教と称した。近松門左衛門を作者に迎えて操り芝居を興行し、人形浄瑠璃を大成。
(2世)[1691~1744]大坂の人。初世義太夫に師事。近松晩年の世話物などを初演。竹本政太夫を名のったが、享保19年(1734)2世義太夫を襲名。翌年、竹本上総少掾かずさのしょうじょうを受領、のち竹本播磨少掾を再受領。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹本義太夫」の意味・わかりやすい解説

竹本義太夫
たけもとぎだゆう
(1651―1714)

義太夫節の開祖で、竹本座の創設者。大坂・天王寺村の農家に生まれ、幼名を五郎兵衛という。早くから井上播磨掾(はりまのじょう)の浄瑠璃(じょうるり)にあこがれ、播磨の門弟清水理兵衛が『上東門院』を興行した際、そのワキを勤めた。1677年(延宝5)京都四条河原の宇治座『西行物語』に出演して嘉太夫(後の加賀掾(かがのじょう))のワキを語り、また年末には同座の興行主竹屋庄兵衛(しょうべえ)と組み、清水理太夫と改めて『神武(じんむ)天皇』を興行した。しかし不評のため、翌年には西国へ下る。1684年(貞享1)竹本義太夫と名のって大坂・道頓堀(どうとんぼり)に竹本座をおこし、『世継曽我(よつぎそが)』を手始めに、『藍染川(あいぞめがわ)』『以呂波(いろは)物語』を興行した。翌85年の新暦採用に際し、加賀掾は下坂して井原西鶴(さいかく)作『暦』を上演、一方、義太夫は『賢女手習并新暦』で対抗して好評を得た。ついで加賀掾は西鶴作『凱陣八島(かいじんやしま)』を出し、近松門左衛門作『出世景清』を演じる義太夫を圧しだしたところ、芝居から火を発したため、加賀掾は京都へ帰ってしまう。これ以後、大坂における義太夫の地盤は固まり、98年(元禄11)には竹本筑後掾(ちくごのじょう)藤原博教を受領(ずりょう)。また1703年(元禄16)の世話物第一作『曽根崎(そねざき)心中』は大当りで、積年の借財を一気に返済しえたと伝えられている。05年(宝永2)より竹田出雲(いずも)が座本となって竹本座の経営にあたり、近松門左衛門を座付作者に迎えて、『丹波(たんば)与作待夜のこむろぶし』『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』『堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)』『嫗山姥(こもちやまんば)』など名作を上演していく。音声は大音で、生涯に130編余の作品と多数の門弟を残し、正徳(しょうとく)4年9月10日没した。大坂・天王寺の南、超願寺に葬る。法名は釈道喜。

[倉田喜弘]

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改訂新版 世界大百科事典 「竹本義太夫」の意味・わかりやすい解説

竹本義太夫 (たけもとぎだゆう)
生没年:1651-1714(慶安4-正徳4)

義太夫節の創始者。はじめ五郎兵衛,ついで清水(きよみず)五郎兵衛,清水理(利)太夫から竹本義太夫となり,やがて受領して竹本筑後掾と称した。大坂天王寺村の農民であったが,清水理兵衛(井上播磨掾門下で,近くで料亭を営み〈今播磨〉と呼ばれた)の門に入る。さらに,京都で人気の宇治嘉太夫(宇治加賀掾)のワキを語る。四条河原での独立興行に失敗,中国筋巡業のあと,1684年(貞享1)道頓堀に竹本座を建てて旗揚げに成功した。翌年,下坂し競演した加賀掾を退け,確固たる地位を築き,1698年(元禄11)正月以前に筑後掾藤原博教を受領した。1703年近松門左衛門の《曾根崎心中》上演でいっそう名声を高めた。三味線の竹沢権右衛門,人形の辰松八郎兵衛にくわえて,05年(宝永2)近松を座付作者に迎え,多くの名作を世に出した。初期の五郎兵衛時代は井上播磨系の大音で明瞭な浄瑠璃だったが,やがて加賀掾の繊細優美な芸を摂取して,〈つよからすよはからすえんにやさしく〉〈世話事はあはれでだてゞしつぼり〉語るようになった。井上播磨掾の精神を発展させ,加賀掾の曲節・技法を継承して,それらの統合の上に立って,近松門左衛門と協力し合い,近世的浄瑠璃を確立した。段物集の序・跋などに彼の芸術論がみられ,人間性,とくに情をふかく表現することに成功した。なお,2世は,弟子の初世竹本政太夫がついだ。
義太夫節
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百科事典マイペディア 「竹本義太夫」の意味・わかりやすい解説

竹本義太夫【たけもとぎだゆう】

義太夫節の創始者,演奏家。通称五郎兵衛。大坂天王寺の農民。清水理兵衛(井上播磨掾の門弟)に師事した。1684年,義太夫節を興し,大坂道頓堀に竹本座を創設。近松門左衛門の脚本によって語り,大好評を博した。近松を語ること100曲以上にも及び,その芸も幅広く,自ら〈当流浄瑠璃〉と称したように,古浄瑠璃を集大成し当時の民衆の心をひきつける芸術を創造した。その弟子の初世竹本政太夫〔1691-1744〕が1734年に2世義太夫の名を継いだ。
→関連項目元禄文化出世景清浄瑠璃豊竹若太夫

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「竹本義太夫」の解説

竹本義太夫
たけもとぎだゆう

1651~1714.9.10

義太夫節の創始者。通称五郎兵衛。大坂天王寺生れ。井上播磨掾(はりまのじょう)の芸に傾倒してその門弟清水(きよみず)理兵衛に入門,のち京都に出て宇治加賀掾一座に参加。宇治座の興行師竹屋庄兵衛と提携し,名も清水理(利)太夫と改め京都で旗揚げするが失敗。さらに名を竹本義太夫と改めて1684年(貞享元)大坂道頓堀に竹本座の櫓(やぐら)をあげ,「世継曾我(よつぎそが)」を語って大当りをとる。翌年には京都から下った宇治加賀掾との競演にも勝利を収め,作者近松門左衛門との密接な協力関係をえて,義太夫節の地位を固めた。98年(元禄11)1月以前に筑後掾(ちくごのじょう)藤原博教(ひろのり)を受領。恵まれた素質を生かし,語り物の本質を踏まえながらも劇的要素に富む義太夫節の様式を確立した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「竹本義太夫」の解説

竹本義太夫
たけもとぎだゆう

1651〜1714
江戸中期の浄瑠璃の太夫。義太夫節の創始者
大坂の人。それまでの浄瑠璃各流の長所や,流行の歌謡の特徴も加えて大成。巧妙な曲節で元禄期の民衆の心に訴えた。1684年大坂に竹本座を創設・経営し,その時近松門左衛門の作品を口演。以後130曲を節づけした。三弦師・人形遣いに恵まれて発展,義太夫節が浄瑠璃節の代名詞となった。

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世界大百科事典(旧版)内の竹本義太夫の言及

【義太夫節】より

…日本古典音楽の種目。竹本義太夫が創始した浄瑠璃の流派。人形芝居の音楽として17世紀後半に成立し,幕末期以後は文楽人形浄瑠璃の音楽として,ひろく親しまれてきた。…

【出世景清】より

…大坂竹本座初演。1685年(貞享2)正月,京から大坂道頓堀に下り競演を挑んだ宇治加賀掾座の二の替り《凱陣八島》(3月下旬まで上演)に対抗して,竹本義太夫が初めて近松に創作を依頼してできた曲で,貞享2年二の替りと推定される(従来は《外題年鑑》の貞享3年説)。5段曲。…

【正本】より

…《今昔操(いまむかしあやつり)年代記》が〈あまつさへけいこ本八行を,四条小橋つぼやといへるに板行させ,浄るり本に謡のごとくフシ章をさしはじめしは此太夫ぞかし〉と記すのは,宇治加賀掾が1679年(延宝7)に出した《牛若千人切》を指す。1710年(宝永7)には竹本筑後掾(竹本義太夫)正本《吉野都女楠(よしののみやこおんなくすのき)》の七行本が刊行された。このほか,六行本,九行本,十行本,十一行本,十二行本,これらの行数の入りまじった本などの種類がある。…

【浄瑠璃】より

…前述の大坂二郎兵衛,大坂源太夫,道具屋吉左衛門,木屋七兵衛,表具屋又四郎,難波規明太夫,規明新太夫などを当流浄瑠璃への過渡期にみる。
[義太夫節の成立と展開]
 竹本義太夫(義太夫節)の出現は古浄瑠璃に対し,近世的曲風の当流浄瑠璃を大坂に招来した。義太夫は1684年(貞享1)竹本座を道頓堀に創設,近松の《世継曾我》で好評を得る。…

【近松門左衛門】より

…もっとも,恵観没(1672)後の動静はあきらかでなく,近江の近松(ごんしよう)寺に遊学したともいわれ,近松門左衛門の筆名の由来をそこに見る説もある。いずれにせよ近松の浄瑠璃作者としての活動は加賀掾のもとで始まるが,その加賀掾のために書いた《世継曾我》(1683)が,翌84年(貞享1)大坂道頓堀で旗揚げした竹本義太夫によっても語られて評判になり,作者としての地位を確保する。このころから元禄(1688‐1704)初年にかけて加賀掾と同時に義太夫のために作品を書くことになるが,竹本義太夫との出会いは,その後の近松にとって決定的な意味をもつことになる。…

【人形浄瑠璃】より

… 金平浄瑠璃の主人公が明確な意志をもって源氏を脅かす謀叛人や妖怪と闘い世を泰平に復せしめる構想は,運命にもてあそばれる主人公の悲哀を詠嘆する中世的語り物とは異質で,単純ながらドラマの基本線が認められる。大坂で《頼光跡目論(あとめろん)》など金平物を得意とした井上播磨掾の門下から,竹本義太夫が生まれたのも故なしとしない。しかし中世色の濃い説経風の古浄瑠璃,角(かく)太夫節なども民衆の根強い支持を保ち,他方,古典的な優雅な題材を扱いつつ現代風俗をも摂取して浄瑠璃の地位を高めた宇治加賀掾は,近松初期の作品《世継曾我》(1683∥天和3)などを演じ,古浄瑠璃と義太夫節の橋渡し的存在となった。…

※「竹本義太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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