立岡村(読み)たちのおかむら

日本歴史地名大系 「立岡村」の解説

立岡村
たちのおかむら

[現在地名]宇土市立岡たちおか町・みず町・花園はなぞの

東は下益城しもましき古保山こおやま(現松橋町)、西は古保里こおざと村、北は曾畑そばた村・佐野さの村に接する。東は山林、西・南・北は平坦な地形である。村の中央に居屋敷いやしき、東に東潤野ひがしうるの、西に二枝ふたつえ、南に野田のだ南東晩免ばんめんなどの字地がみえ北に水町・西俣にしまたなどの飛地がみえる(郡村誌)。慶長六年(一六〇一)一〇月三〇日付の加藤清正黒印状(志岐文書)に「宇土郡古保里内立岡村」とあり、支岐藤右衛門へ当村の四二〇石を与えている。

立岡村
たちおかむら

[現在地名]度会町立岡

大久保おおくぼ中出なかでの集落の南。西を鮠川はいかわ村境の小川で、東・南を宮川で囲まれた宮川段丘上にある。近世には枝邑草場くさばを含み、また大久保村と一村の時期が長かった。慶安郷帳(明大刑博蔵)では大久保・立岡村一村で高二六〇石余。宝暦三年(一七五三)検地帳(内城田村誌)では独立して村高一六四石余。文政四年(一八二一)の本新高人家牛馬数調(同書)では一六三石余のうち本田畑一五〇石余。

立岡村
たつおかむら

[現在地名]太子町立岡

糸井いとい村の北に位置する。村名は村西部の立岡山による。嘉暦四年(一三二九)四月日の鵤庄絵図(法隆寺蔵)には南部に小立岡・大立岡とある。永正一六年(一五一九)中務少輔(赤松村景か)家臣の喧嘩に端を発し、六月二八日西八郡の赤松勢が立岡山、広山ひろやま(現龍野市)、揖保川河原に集結して鬨の声をあげたという(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)。慶長国絵図に村名がみえる。慶長一八年(一六一三)の揖東郡村々高覚(三木家文書)には弘山ひろやま庄内と肩書され、同一三年の高四七一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android