穴水城(読み)あなみずじょう

日本の城がわかる事典 「穴水城」の解説

あなみずじょう【穴水城】

石川県鳳珠(ほうす)郡穴水町にあった山城(やまじろ)。同町指定史跡。能登守護の畠山氏重臣の長(ちょう)氏が居城としていた城である。長氏は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で、平家滅亡後、源頼朝から能登国珠洲郡の大家荘を与えられた長谷部信連(のぶつら)の子孫である。長氏は室町時代、将軍直属の奉公衆となったが、16世紀半ばに能登畠山家の被官となった。この地には小規模な長氏の居館があったともいわれるが城郭として整備され、1488年(長享2)、長英連の代に温井氏により城が陥落し一時明け渡したことがあったが、長氏8代の正連から21代連龍までの約200年あまりにわたって、長氏が居城とした。穴水城が歴史の舞台に初めて登場したのは、1576年(天正4)から翌1577年(天正5)9月にかけての七尾城(七尾市)での戦いである。1575年(天正3)、織田信長は柴田勝家を越前侵攻させたが、これに危機感を抱いた上杉謙信はその翌年に信長との同盟を破棄して対決の姿勢を鮮明にし、2万の大軍を率いて越中に侵攻、能登への侵攻の機会をうかがった。これに対し、能登畠山氏は、穴水城主で老臣筆頭の長続連(つぐつら)が主導権をとって七尾城での籠城戦を決定した。謙信は七尾城を攻めたが攻略に手を焼き、矛先を周辺の支城に向けて七尾城を孤立させる作戦に転換した。その中に、長氏の居城の穴水城も含まれていた。この攻略戦の最中、小田原の北条氏政が大軍を率いて上杉領国の上野国(群馬県)に侵攻したことから、謙信は帰国した。これを機に畠山勢は反撃を開始したが、北条勢を破った謙信は再び大軍を率いて能登に進撃。七尾城に籠城した畠山勢は善戦したものの、城内に悪疫が流行して、幼君の畠山春王丸をはじめ多数の死者を出した。事態に窮した続連は、子の長連龍を安土城(滋賀県近江八幡市)の織田信長のもとに派遣し、援軍を要請した。また、城内では親謙信派の遊佐続光らによる反乱も起こり、七尾城は開城し、謙信の支配下に置かれた。この戦いで畠山氏は滅亡し、長氏一族は続連をはじめ、その子綱連・竹松丸父子、綱連の弟則直らを失った。連龍は1578年(天正6)、織田信長の支援を受けて穴水城の奪還に成功。1581年(天正9)、前田利家による能登支配が始まると領内は安定し、その後、この城は役目を終えて、1583年(天正11)に廃城となった。現在、城跡は穴水城址公園として整備され、園内には曲輪(くるわ)や堀跡などの遺構が残っているほか、穴水町役場の東奥、長谷部神社裏手などからの4つの登城口が整備されている。本丸跡には穴水城址の石碑と案内板が建っている。城山の麓には町立歴史民俗資料館がある。のと鉄道穴水駅から徒歩約15分。◇白波城、白藤城、岩立城、岩木城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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