穀町(読み)こくまち

日本歴史地名大系 「穀町」の解説

穀町
こくまち

[現在地名]仙台市穀町

南鍛冶みなみかじ町の南、南材木みなみざいもく町の北、通町とおりまち(奥州街道)の両側町で、東は畳屋たたみや丁、西は石名坂いしなざか。町並長さ約一町で(奥陽名数)、町方二四町の一五番目に列する(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)。町取立ての時期は、南鍛冶町の西に接するあら町と南材木町の成立年代からみて、寛永五年(一六二八)から同一一年の間と思われる。また同一三年の若林わかばやし城下廃止以後、小泉こいずみ村にあった若林米わかばやしこめ(現在もその地名が残る)が移されたとする説もある。

穀町
こくちよう

[現在地名]盛岡市清水町しみずちよう南大通みなみおおどおり二丁目

うま町の南西に沿って延びる奥州街道の両側町で、三町半ほどの町人町(「盛岡砂子」など)。同街道は北西端で六日むいか町に突き当り、右折して同町に入る。南東新穀しんこく町、南西は大清水おおしみず小路に接する。寛永城下図には三日みつか町とあるが、「雑書」寛永二一年(一六四四)五月二七日条にこく町とみえ、元文城下図にも石町とある。文化九年(一八一二)穀丁と改称(御家被仰出)幕末の城下図(葛西氏旧蔵)には六日町側から一丁目・二丁目・三丁目とある。市日は一二月九日・一九日・二九日で(盛岡砂子)、三日町の由来となったともいわれ、一二月の市日に新山しんざん河岸の御蔵の米が払下げられたため穀町と称したとも伝えられる。

穀町
こくまち

[現在地名]須坂市小山 穀町

小山こやま村東北部上新田かみしんでん。東は鎌田かまだ山で坂田さかだ村、南は南原みなみはら、西は北原きたはら、北はかん町と境する。ほぼ南北に上町から来る大笹おおざさ道が通じる。

須坂村の豪商牧七郎右衛門の奉公人田中新八が、享保一八年(一七三三)この地に独立。しだいに大をなし居屋敷を広大に構え、煙草・油を手広く商った。宝暦九年(一七五九)須坂村穀商らが須坂藩払籾の引受けを難渋し、新八が引受けを命じられ穀商となった。穀問屋を始めたが、取引上の印鑑に上新田村では不都合とされ、翌年二月藩に願って「須坂穀町」の許可を得た。

穀町
こくちよう

[現在地名]遠野市穀町・中央通りちゆうおうどおり

横田よこた五町の一町で、一日市ひといち町東端から北に延びる。天和―貞享(一六八一―八八)頃開かれた町で、当初あら町とも称した(遠野古事記)。町立て後引移った者には二分が与えられたが不景気であったため、一〇〇貫文が町の御預銭とされ貧窮者の助成金に使われた(「検断勤方記写」鈴木文書)。延宝九年(一六八一)の家数三四(うち借家一二)・人数一九六、馬四〇(「巡見使御答書上帳」遠野市立図書館蔵)、安永九年(一七八〇)の家数は九五軒で(邦内郷村志)、約三倍近く増加している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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