稲荷山村(読み)いなりやまむら

日本歴史地名大系 「稲荷山村」の解説

稲荷山村
いなりやまむら

[現在地名]更埴市稲荷山町

千曲川と小坂山との間にあり、東は千曲川を経て杭瀬下くいせけ村、西は山嶺を境して大岡村、南は御言みこと川を境に八幡やわた村、北は塩崎しおざき村に接する。往古は「和名抄」の小谷おうな郷、また「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の乃貢未済庄々注文の小谷庄に属する。

寛政年中(一七八九―一八〇一)成立と推察する「往古より村方書留帳」(田中文書)によると、上杉景勝により稲荷山城が築かれた時、桑原郷から二軒が移住して伝馬役を務め、開発百姓となったという。同一二年には飯縄大明神・稲荷大明神を勧請、同一三年には、荒町・五日町・柳町・八日町に市神が建立されたことも記しているので、急速に城下町として発展したものであろう。

稲荷山村
とうかやまむら

[現在地名]大栄町稲荷山

久井崎くいざき村の南に位置する。天正一九年(一五九一)七月の知行書立(千葉県の歴史)に「とうか山」とみえ、当村二〇三石余が旗本神保氏に与えられており、同領のまま幕末に至る。元禄郷帳でも同高。元禄一四年(一七〇一)の山検地帳(稲荷山区有文書)では百姓持山二町三反余、うち割出二反余。延享三年(一七四六)年貢割付状(稲荷山区有文書)によれば、年貢は米六七石余・永九七四文余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報