稲岡村(読み)いなおかむら

日本歴史地名大系 「稲岡村」の解説

稲岡村
いなおかむら

[現在地名]出雲市稲岡町

斐伊川左岸の平坦地にあり、南東武志たけし村、北は出雲郡西林木にしはやしぎ村。中世には稲岡郷とよばれ、建久五年(一一九四)三月二一日の国造出雲孝房譲状(千家家文書)に「遥堪郷 鳥屋郷 武志郷 稲岡村 出西郷 富村 大田郷」とみえる。国造出雲氏は平安後期から出西しゆつさい郷・とび村など斐伊川周辺の開発を進めていたが、当村もそのうちの一つ。杵築大社(出雲大社)領一二郷の一つ。鎌倉初期にはすでに中央の権門勢家に寄進されていたらしく、建暦三年(一二一三)八月二一日の縫殿允清澄奉書(北島家文書)に「御領郷々浦々以下事、如先度可令知行給也、於出西郷・同富・高墓・石墓村并稲岡郷者、本自為別納之地」とあり、領家の「三位殿」が管領していた。康元元年(一二五六)一二月日の杵築大社領注進状(同文書)に「一 稲岡郷拾捌町段佰弐十歩(中略)定田拾陸町参段」とあり、その規模は約一八町余であった。

稲岡村
いなおかむら

[現在地名]足利市稲岡町

大小だいしよう山東方の低台地に位置し、西は西場にしば村。東端はた川が南流し、対岸並木なみき村・小中こなか(現佐野市)。北は赤見あかみ(現同上)。宝徳二年(一四五〇)五月三日の小野寺朝通譲状案(小野寺文書)足利庄「稲岡郷山名方」とみえ、当地の一部は小野寺氏の所領であった。室町後期より足利庄に入部した長尾氏の支配下に入り、戦国初期には同郷内五貫文の地が妹尾弥七郎に宛行われている(年未詳八月二四日「長尾景長充行状」三浦光祥氏所蔵文書)

稲岡村
いなおかむら

[現在地名]谷田部町稲岡

新牧田あらまきだ村東南、小野おの川東北岸に位置。村域の稲岡遺跡は集落跡で土師器出土。江戸時代には旗本由良氏の知行地となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には由良信濃守の知行地で村高二二九・〇七五石。村内は入口いりぐち中口なかぐち門口かどぐちに分れ、天台宗の西向山福寿院長泉ちようせん寺があったが廃寺

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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