秋葉街道・秋葉道(読み)あきはかいどう・あきはみち

日本歴史地名大系 「秋葉街道・秋葉道」の解説

秋葉街道・秋葉道
あきはかいどう・あきはみち

秋葉信仰の拠点である秋葉山(現春野町)へ向かう道。本書では便宜上、江戸期の相良さがら(現相良町)から掛川城下を経て秋葉山に至り、遠江・信濃境の青崩あおくずれ(現水窪町・長野県南信濃村)を越えて信濃に入る道を秋葉街道、その他の秋葉山へ向かう道を秋葉道として使用した。山としての秋葉山は春野はるの町と龍山たつやま村の境にあり、標高八六六メートルの山頂には火伏せの神である三尺坊大権現が祀られていた。この神は天狗であって、火事になると羽うちわを持って駆けつけて火を消してくれると信じられ、川柳に「名も鼻も世上に高い秋葉山」(俳風柳多留)と詠まれている。江戸時代になると城下町宿場町などの町場はもちろん、農村部においても秋葉講を組織して火事が起こらないように全国から参詣に訪れた。秋葉山は北は信濃、西は三河、東は駿河、南は太平洋に通じる道が交わる地にあるため交易の道でもあり、さらに三尺坊大権現はもちろん長野善光寺や鳳来ほうらい(現愛知県鳳来町)などにお参りする信仰の道、お茶摘みや糸取り(製糸)に行く女性が通る生活の道でもあった。天竜川沿いの国道一五二号を通ると山の上の方にたくさんの人家が見えるが、この山の上の人家こそかつての秋葉道に沿って建てられた古くからの家である。

〔南口〕

南から登る道が表参道東海道掛川宿の西にある秋葉鳥居をくぐって秋葉街道に入る。この鳥居は「東海道名所図会」をはじめ各種の浮世絵に描かれ、シーボルトケンペルも記録している。ここから秋葉山までの間で人馬継立ができるところはもり三倉みくら(ともに現森町)堀之内ほりのうち村の小奈良安こならやす犬居いぬい(ともに現春野町)であった。森の町は遠州の小京都といわれ、旅籠屋や茶店・商店が並んでいたので「遠州森町なぜ日がささぬ、秋葉道者の笠の蔭」と歌われるほど秋葉道者で賑わっていた。ここから三倉川に沿って進み、曲がりくねった川には橋も渡船もないから川の中を何度も渡って行かなくてはならなかった。このことから三倉川を四十八瀬しじゆうはつせ川とか伊呂波いろは川といった。滝沢馬琴は「いろはにほへとほつあふみや仮名の数四十八瀬も越えていつ京」と歌っている(羇旅漫録)。たくさんの川を渡り終えていち(現森町)に着くと「川祝」の酒を飲む人もいた。この川筋の西股にしまた(現同上)は天保一二年(一八四一)に「正月中天気続く、道者沢山通ル」、嘉永五年(一八五二)には「正月中天気、道者多く通り、海道にきやか」という状況であった。同年は二月より秋葉山の開帳が行われ、農家の片隅に臨時に宿泊所を作ったところ二月下旬から三月下旬までに四九〇人も泊った(以上「永代記」渡辺家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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