社号帳(読み)しやごうちよう

日本歴史地名大系 「社号帳」の解説

社号帳
しやごうちよう

解説 加賀藩による神社調査は現在残る社号帳から少なくとも正徳二年・宝暦九年・文政七年の三度行われていることがわかる。正徳二年のものは礪波郡射水郡の堂宮社人山伏持分并百姓持分相守申品書上ケ申帳と題する史料がある。礪波郡のものは富山大学付属図書館蔵の川合家文書にあり、射水郡のものももとは同じく川合家文書のうちにあったが、現在は高岡市横田の上田家蔵となっている。この社号帳は加賀藩としては村の社祠実態を知る最古の史料で、正徳社号帳と略称される。寺社奉行が十村にそれぞれ管下の堂宮を書上げるように命じ、郡奉行へ提出させたもので、堂宮名と村名をあげ、その持分がだれであるかを一社ごとに記載する。宝暦九年のものは正徳社号帳と異なり、幕府の布達による全国的な神社調査の一環として行われた。その布達の内容は、(一)社人の存在する社、古来からの社を書上げること、(二)由来由緒書等は不要、(三)一国でまとめて提出し、郡名などの記載は不要等という簡単なものであった(御触書宝暦集成)。この布達を受けた加賀藩は、正徳社号帳作成時のように各十村には触れず、神主・山伏の各触頭に命じてその触下の神主・山伏ごとに持宮を書上げさせたらしく、神主持のものと山伏持のものが別々に存在している。神主持のものは越中国宝暦社号帳と称されているもので、現在、先の上田家が所蔵する。礪波・射水・新川三郡の社家四九名がそれぞれ自分の持宮の社名と村名を書上げており、正徳社号帳の存在しない新川郡にとっては貴重である。上田氏所蔵の正徳・宝暦の社号帳は富山県立図書館に写真版がある。山伏持のものについては、礪波郡のものは能州石動山大宮坊無住ニ付拙僧共江御預山伏越中能州分神社改書上帳と題する史料が福野町野尻の河合家に保存されている。表紙下方に「拙寺貰請申候 法厳寺 当山方山伏頭乾貞寺・天道寺・医王寺」とあり、礪波郡修験者の大半を占める当山方山伏の持分を記す。山伏法厳寺は明治維新の神仏分離により復飾して神主河合氏となった。河合家の書上帳は「中越郷土叢書」第一八集に収められている。文政年間のものは長期にわたる社号整理の一環であったらしい。文政七年藩は越中と加賀の社家の触頭二名と他二名を三州社号調理方主付に任じ、文政一三年には二名の神主を上京させ、社号・祭神名などについて吉田家の指導を受けさせている(「文政十三年社号御調理ニ付被為仰渡御条目」・「神社号等調理方主附一件等」加越能文庫)。この時の社号帳は正徳や宝暦のもののように藩または触頭でまとめられたものは存在せず、各神主または山伏が提出したものの控が個人で所蔵されているだけである。比較的まとまっているものに、神主持について礪波郡全域と射水郡の一部の文政七年礪波射水之内神主中社号帳(砺波市安川黒田家蔵)があり、新川郡では朝日町三枚橋の高倉家に持宮一〇〇社についての書上が残る。また礪波郡の山伏については文政七年由来并持宮御尋ニ付書上帳(前掲河合家蔵)があり、「中越郷土叢書」第一八集に収載。各個人の持宮の書上には社名と村名のほかに祭日・祭神・勧請年・簡単な由緒などを記すものが多く、十村や触頭の手でまとめられた史料にはない情報を得ることができる。なお礪波郡には寛政八年の社号帳(川合家文書)もある。富山藩の寺社改については不詳であるが、富山市願海寺の寺崎家に正徳六年の諸宗寺数改帳があり、二二七ヵ寺(富山町六七を含む)が書上げられており、「三州地理志稿」の書上と若干異同がみられる。また慶応四年の越中富山領分寺社名書上(前田家文書、「富山県史」史料編V)に社家一六名・修験道二寺・山伏一〇院三寺が載る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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