石巻村(読み)いしのまきむら

日本歴史地名大系 「石巻村」の解説

石巻村
いしのまきむら

[現在地名]石巻市中央ちゆうおう一―三丁目・中瀬なかぜ泉町いずみちよう一―四丁目・羽黒町はぐろちよう一―二丁目・立町たちまち一―二丁目・穀町こくちよう千石町せんごくちよう鋳銭場いせんば住吉町すみよしちよう一―二丁目・中里なかざと一―七丁目・水明南すいめいみなみ一―二丁目・水明北すいめいきた一―三丁目・南中里みなみなかざと一―四丁目・開北町かいほくちよう山下町やましたちよう一―二丁目・双葉町ふたばちよう駅前北通りえきまえきたどおり一―四丁目・元倉もとくら一―二丁目・東中里ひがしなかざと一―三丁目・門脇町かどのわきちよう一丁目・石巻

羽黒山北麓と、蛇行して南流する北上川とに囲まれた平野に立地。北西部は蛇田へびた村、南は門脇村に接し、北上川・中瀬を隔ててみなと村を望み、本村は東西八町一間、南北一〇町五〇間、および端郷住吉町分東西三町一二間、南北二町三九間、端郷袋谷地ふくろやち分東西七町一五間、南北四町二五間の街村(牡鹿郡万御改書上)。「安永風土記」に「当村端郷住吉町住吉大明神社地脇石巻石・石巻淵御座候ニ付、其縁を以村名ニ唱申候」と村名由来を伝える。慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)の「かさい中」に「いしまきの内 舟十五そう」が記され、「ミなと」と別記される。伊達政宗は長州出身の川村孫兵衛重吉に北上川の改修を命じ、はさま川・江合えあい川を北上川へ合流させて石巻に注がせた。工事は元和九年(一六二三)から寛永三年(一六二六)にかけて行われ、これによって三河川の舟運が盛んとなり、沿岸地域の新田開発が行われた。石巻は河口港として仙台藩をはじめ南部・一関・八戸各藩の米の積出港として栄えるようになった。「仙台領遠見記」に「石巻村は海辺へ出ざる町なれども、川口近く北上川を前に受、河原広く中瀬なども在り。諸国の廻船入津(中略)奥州の大津にて繁花の所也」と記している。寛永五年の伊達政宗鮭魚役申付黒印状(伊達家文書)に「一横川、一石之巻、かミハ金ケ崎をきりて引あミながしの役、可為如前々候、但ひと川引、従当年被相当、舟一艘ニ付、さけのうお五本宛可申付事」と命じており、上流はかねさき(現岩手県胆沢郡金ヶ崎町)まで鮭の引網流が行われている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報