石巻(読み)いしのまき

精選版 日本国語大辞典 「石巻」の意味・読み・例文・類語

いしのまき【石巻】

宮城県中東部、北上川河口の地名。鎌倉時代戦国時代葛西氏城下町として発展。江戸時代には港町としても繁栄。新産業都市仙台湾地区の一中心として工業港の整備も行なわれた。製紙、水産加工などの工業が盛ん。昭和八年(一九三三)市制。伊寺之水門(いしのみなと)

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デジタル大辞泉 「石巻」の意味・読み・例文・類語

いしのまき【石巻】

宮城県中東部の市。北上川河口にあり、石巻湾に面する。中世には城下町、江戸時代は米の積み出し港として栄えた。漁業・水産加工や製紙工業が盛ん。平成17年(2005)4月、周辺6町と合併。人口16.1万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「石巻」の意味・わかりやすい解説

石巻[市] (いしのまき)

宮城県東部にある市。2005年4月旧石巻市と雄勝(おがち),牡鹿(おしか),河南(かなん),河北(かほく),北上(きたがみ),桃生(ものう)の6町が合体して成立した。人口16万0826(2010)。2011年3月の東日本大震災では死者行方不明5795人,全壊住宅2万8000戸,東北3県の市町村の中で最大の被害を受けた。

石巻市中央部南寄りの旧市。1933年市制。その後1949-67年に牡鹿郡蛇田村,荻浜村,渡波(わたのは)町,稲井町を編入した。人口11万9818(2000)。市域牡鹿半島北西岸と北上川河口の数条の砂州を含む。市街地は日和(ひより)山(56m)の洪積台地と北上川西岸および東岸の牧山との間に広がり,近年は大街道,蛇田まで住宅地が伸びている。鎌倉時代から戦国時代までは葛西氏の城下町であったが,17世紀前半の北上川河道の改修以来,北上川は米輸送の大動脈となり,河口の石巻湊は米の積出港として繁栄した。明治に入ってからも商港,漁港の地位を保っていたが,明治20年代の東北本線開通以後は北上川の舟運が衰え鉄道からもはずれたため,石巻は一時衰微した。大正初めに石巻線,昭和初めに仙石線が通じ,三陸漁場の開発に伴って遠洋漁業および仙台湾の底引網漁業,三陸沖の沖合漁業の基地となり,また水産加工,造船,紙パルプ工業,木材工業などの発展によって市勢は活発となった。サンマ,カツオなどの水揚げが多く,海上の田代島もカツオ・マグロ漁業の基地となっている。1964年新産業都市に指定された後,北上川河口の錯綜を避けるとともに,計画的な土地利用を目指すため,河口にあった漁港を東方の石巻湾岸の長浜に移し,また西方の定(じよう)川河口に工業港を建設して,それぞれの背後に水産加工団地,木材加工などの工業団地を配した。東部の万石浦(まんごくうら)の湾口にある渡波は近世から昭和初めごろまでイワシの水揚げで栄えた漁港で,現在は水産加工および輸入種ガキの産地である。市の中心部にある日和山公園は桜,ツツジの名所となっている。
執筆者:

北上川河口に発達し,〈奥州第一の湊〉といわれた仙台藩の港町。中世に牡鹿湊と呼ばれ,元和年間(1615-24)伊達政宗が家臣川村孫兵衛に命じ北上川の流路を付け替え,本流を石巻に南下させるに及んで大きく発達した。北上・迫(はさま)・江合の3河川を石巻に積み下ろされた仙台藩,盛岡藩,八戸藩などの米,材木,銅などは,石巻湊で天当船など千石船に積み替えられ江戸に回漕された。石巻湊町は門脇・石巻・湊の3村と石巻村端郷の住吉・袋谷地から構成され,それぞれに町場がおかれ,石巻町場が中心であった。藩の港施設として,御役人会所,御米蔵,御本穀会所,材木蔵,御穀改所などがおかれ,盛岡藩,一関藩,八戸藩の会所・米蔵もあり,全収納量は20万俵近くに達した。江戸廻米に従事した石巻穀船はおもに3村所属で,1777年(安永6)に600石積以上の天当船57艘を数えた。しかし藩の統制が厳しく,商品輸送が従で商港の発達には限界があった。
執筆者:

石巻市東端の旧町。旧桃生郡所属。人口5239(2000)。牡鹿半島北部にあって,太平洋に突出した小半島を占める。北上高地南端の丘陵が海岸まで迫り,出入りに富んだリアス海岸に集落が散在する。中心集落の雄勝は小半島の南に深く湾入した雄勝湾の奥に位置する。産業の中心は漁業で,ワカメ,カキ,ノリ,ホヤ,ホタテなどの水産養殖が盛ん。遠洋漁業に従事する者も多い。また二畳紀の粘板岩(雄勝石)を原石に硯が生産され,全国生産額の約9割を占める一大産地となっている。変化に富む海岸は南三陸金華山国定公園に指定されており,追波湾に浮かぶ八景島はユズリハなど暖地性植物群落の北限として天然記念物に指定されている。

石巻市南東端の旧町。旧牡鹿郡所属。人口5279(2000)。牡鹿半島の南半と金華山,網地(あじ)島からなる。平地がほとんどなく,産業の中心は漁業である。中心集落の鮎川は牡鹿半島の南端にある漁業集落で,明治末期に大手捕鯨会社が進出して以来,近海捕鯨の基地になっている。半島の沿岸や網地島には13の漁港があり,沿岸漁業やワカメ,カキなどの養殖が行われる。金華山の黄金山神社は古くから東北農民の参詣が多かったが,現在は南三陸金華山国定公園を代表する観光地の一つとしてにぎわう。1971年に牡鹿コバルトライン(96年無料開放)が開通し,商業捕鯨が88年全面禁止になるに伴い,観光開発に力が入れられている。鮎川には鯨博物館(現,おしかホエールランド)があり,毎年8月鯨祭も行われる。旅館,民宿など宿泊施設も多い。

石巻市西端の旧町。旧桃生郡所属。人口1万7919(2000)。旧北上川下流の南岸にあり,町域西部に旭山を中心とした丘陵が連なるほかは低地が広がる。中央部には近世の新田開発の際,灌漑用水源として築造された広淵沼があったが,昭和初期に干拓された。耕地のほとんどが水田で,県下でも有数の米産地である。酪農,肉用牛などの畜産も行われる。旭山一帯の丘陵は県立自然公園となり,桜の名所として知られる。縄文後期の宝ヶ峯遺跡がある。石巻線,気仙沼線が通じる。

石巻市中央部北寄りの旧町。旧桃生郡所属。人口1万3407(2000)。北上高地の南端にあり,新北上川が中央を流れ追波湾に注ぐ。町域の西境には旧北上川が流れ,西部には低地が広がる。中心集落の飯野川は新北上川が〈くの字〉に屈曲する北側に位置し,近世に六斎市が開かれた市場町で,明治~大正期には桃生郡の郡役所が置かれた。産業の中心は農業で,米作が主体。飯野川付近では古くから茶の栽培も行われる。東端は海に面し,長面浦ではノリ,ワカメの養殖が行われる。南に接する旧石巻市との関係が深く,国道45号線が通るなど交通の便がよいため,近年,電子部品工場の進出が多い。

石巻市北東端の旧町。旧桃生郡所属。人口4472(2000)。三陸海岸の南部,追波湾に面し,新北上川北岸にある。新北上川沿岸にわずかに低地が広がるほかは,ほとんどが丘陵。近年沿岸漁業の不振から酪農への転換が行われ,町営放牧場もつくられている。養蚕やワカメ,ホタテガイの養殖も行われる。1979年に海岸一帯は南三陸金華山国定公園に指定され,双子島などの島々はウミネコの繁殖地として知られる。北部の翁倉(おきなくら)山はイヌワシの生息繁殖地(天)となっている。

石巻市北西端の旧町。旧桃生郡所属。人口8644(2000)。北上川の新旧流路にはさまれ,新流路沿いの東部は丘陵,旧流路沿いの西部は低地となっている。奈良時代に蝦夷地経営の軍事的拠点として桃生城が築かれ,開拓が進められた。中世は葛西氏が支配し,近世は仙台藩領であった。藩主の伊達氏は家臣川村孫兵衛に命じて北上川改修工事を進め,これによって広大な野谷地の新田開発が可能になった。北上川改修は1910年の2度の堤防決壊を契機に再び手がけられ,35年に現在の用・排水系統が完成した。その後,土地改良事業も進められ,現在は県下有数の米どころである。ほかに畜産や茶栽培が行われ,60年代後半以降,弱電,縫製などの工場も進出している。
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世界大百科事典(旧版)内の石巻の言及

【東廻海運(東回海運)】より

…元和期(1615‐24)に入ると盛岡藩の蔵米などが三陸諸港から江戸に恒常的に輸送されるようになった。同じころ,仙台藩は北上川を大改修し河口の石巻湊を江戸廻米の積出港とするに及んで,同湊からの仙台・盛岡両藩の江戸廻米(廻米)が本格化した。さらに1625年(寛永2)青森湊が開港し,東廻航路は陸奥湾の諸湊と結ぶようになった。…

※「石巻」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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