石太郷(読み)いそほごう

日本歴史地名大系 「石太郷」の解説

石太郷
いそほごう

和名抄」所載の郷。訓は未詳であるが、応永二〇年(一四一三)六月二五日の長沼義秀所領譲状(皆川文書)にみえる「いそほ」が適当であろう。比定地については現揖斐いび郡大野町南部の川合かわい地区に上磯かみいそ・下磯の大字があり、また下磯を江戸時代初頭下磯生村と記した例もあるため、上磯・下磯を中心とした一帯にあてる説が主流である(「濃飛両国通史」「揖斐郡志」「岐阜県史」など)。郷域は上磯・下磯地区の西、加納かのう本庄ほんじようなどの揖斐川寄りにも及んだと考えられるが、さらに南の西座倉にしざぐら(現安八郡神戸町)下座倉しもざぐら(現大野町)も含むか。

石太郷
いそほごう

大野郡の郷名で、現大野町南部の上磯かみいそ・下磯辺りに比定される。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)五月二九日条に美濃国石田郷とみえ、美濃藤次安平が濫妨したとして領主刑部卿典侍が一条能保の口入を得て源頼朝に訴えている。この石田郷は同年六月日の頼朝下文では大野郡内石田郷と記されている(同書同月二日条)。鎌倉時代、長沼氏当郷地頭職を得、寛喜二年(一二三〇)八月一三日の長沼宗政所領譲状(皆川文書)で下野国内の所領以下「美濃国石太郷・五里郷・津布良」などを嫡子時宗に譲っている。正和元年(一三一二)四月一四日には当郷地頭職を長沼宗秀が宗実に譲り、同四月二二日には同譲状に安堵の外題を得た(「長沼宗秀所領譲状并安堵外題案」長沼文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報