真玉庄(読み)またまのしよう

日本歴史地名大系 「真玉庄」の解説

真玉庄
またまのしよう

現真玉町のうち臼野うすの地区を除く全域に比定される。周防灘に注ぐ真玉川および支流恵良えら川流域を中心とした一帯に比定される。本家は山城石清水いわしみず八幡宮、領家は宇佐宮神宮寺の弥勒寺(現宇佐市)。文治二年(一一八六)四月一三日の後白河院庁下文案(益永家記録)に豊後国浦部一五ヵ庄の一つとして真玉庄とみえる。累代聖主勅免庄園で、その所当・地利は恒例の仏神事・寺家修理の用途に充てられていたが、押領を企てる者がいたため鳥羽院の代に押妨を停止せよという院庁下文が出され、しばらくは平穏であった。藤原頼輔国司となるや押領を始めたため寺家は訴状を提出、仁安二年(一一六七)院庁下文が再度出されたもののなお国領とされていた。しかし源季兼が押領を続けた結果重病になり、目代中原資職も一五ヵ庄の一つ八坂やさか(現杵築市)を停廃したため庄の境で頓死した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報