真島郡(読み)ましまぐん

日本歴史地名大系 「真島郡」の解説

真島郡
ましまぐん

和名抄」東急本・刊本(国郡部)に「万志万」の訓がある。近代の訓は「マジマ(内務省地理局編纂「地名索引」)。「和名抄」には真島・垂水たるみ鹿田かつた大井おおい栗原くりはら美甘みかも建部たけべ月田つきだ井原いわら高田たかたの一〇郷が記載され、令制では中郡にあたる。古代は北から東は大庭おおば郡、南は備前国津高つだか郡、西は北から伯耆国日野ひの郡・備中国阿賀あが郡に接した。郡域は旭川右岸の山間部を中心とし、現真庭まにわ郡の湯原ゆばら町西部、勝山かつやま町のほぼ全域、落合おちあい町西部と川上かわかみ村の一部、新庄しんじよう村・美甘村の全域がほぼこれにあたる。美作国七郡のうち英多あいた勝田かつた苫東とまひがし・苫西・久米くめの五郡が吉井川水系に属するのに対し、大庭・真島二郡は旭川水系に属する。両郡は現真庭郡久世くせ町・落合町の旭川両岸に若干の沖積平地を有するものの、大部分は山間部からなっており、低丘陵と沖積地から構成される津山盆地を中心とする東部五郡とは様相を異にする。史料的にも大庭・真島というようにともにみえることが多い。

旧石器時代には蒜山ひるぜん盆地に若干の遺跡が存在する。縄文時代には川上村野田原のとばら遺跡、落合町の宮の前みやのまえ遺跡など、郡内各地に散見する。宮の前遺跡では晩期に属する四一基の貯蔵穴が検出された。弥生時代には真庭盆地を中心に遺跡数が飛躍的に増大する。落合町下市瀬しもいちぜ遺跡からは弥生時代後期の井戸が検出され、それに伴って総高六・六センチの小銅鐸が出土した。同町中山なかやま遺跡は弥生時代の埋葬遺構群で、総計二六〇基を超える土壙墓を主体とした遺構が検出されている。なお谷を隔てて北接する落合町の旦原だんのはら遺跡からは竪穴住居・貯蔵穴などが検出されており、中山遺跡墳墓群と対応する集落跡と推定されている。古墳時代にも真庭盆地を中心に中小の古墳が築かれる。前方後円墳として落合町垂水古墳、同町槙の前まきのまえ三号墳、同町井手伊倉いでいくら古墳があり、落合町日名ひなを中心とする地区には四〇基近い数の後期群集墳がある。

〔古代〕

「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条の「割備前国英多、勝田、苫田、久米、大庭、真島六郡、始置美作国」が史料上の初見。次いで神亀五年(七二八)四月一五日の太政官奏(同書)に大庭・真島二郡が山川峻遠にして運輸に困苦するので、庸を米から綿・鉄に変更することがみえ、一年間に両郡から貢納される庸米は八六〇余石となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報