皆田村(読み)かいたむら

日本歴史地名大系 「皆田村」の解説

皆田村
かいたむら

[現在地名]上月町皆田

大垣内おおがいち村の西に位置し、西は杉坂すぎさか峠を隔てて美作国英田あいだ田原たはら(現岡山県作東町)、北は吉野よしの大聖寺だいしようじ(現同上)海田・甲斐田とも記す。古代―中世の美作道が通り、「太平記」巻四によれば後醍醐天皇が隠岐に配流される途次に杉坂峠を越えている。同書巻六によれば、元弘三年(一三三三)赤松円心が大塔宮令旨を奉じて挙兵した際、まず杉坂に関を構えたという。「大乗院寺社雑事記」文明七年(一四七五)一〇月九日条によると奈良興福寺は同寺の維摩会講師のために甲斐田(皆田)紙一帖五〇枚を一〇〇文で購入している。

皆田村
かいだむら

[現在地名]宇和町皆田

宇和川が野村のむら盆地へ向かう峡谷入口の村。東は下川しとうかわ村、西は伊南坊いなんぼう村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「皆田村 茅山有、川有、日損所」と記される。

太閤検地石高は四二四石、耕地面積の比率は田八三パーセント、畑一七パーセントで、寛文検地には石高が一・四倍に増加し、田六〇パーセント、畑四〇パーセントに変化している。「墅截」による村柄は「上」、耕地は田が「上ノ中」、畑が「下」、水掛りは「吉」である。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田七反九畝、畑五反四畝であり、百姓数六四人のうち本百姓二四人、半百姓三九人、庄屋一人に分れ、半百姓の比率が高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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