白鳥村(読み)しろとりむら

日本歴史地名大系 「白鳥村」の解説

白鳥村
しろとりむら

[現在地名]前沢町 白鳥中しろとりなか白鳥館しろとりたて谷起やぎ大袋おおぶくろ新城しんじよう塔ヶ崎とうがさき徳沢とくさわ合の沢あいのさわ前野まえの鵜ノ木うのき照井館てるいたて清水沢しみずさわ野切のつきり

前沢村の南、白鳥川流域に位置し、奥州街道が通る。東は北上川に臨む。古代の胆沢郡白鳥郷・白鳥駅(和名抄)の遺称地で、白鳥駅には駅馬五疋が常備されていた(「延喜式」兵部省)。平安時代後期には安倍氏の拠点の一となり、白鳥館に安倍頼時の子白鳥八郎行任(則任)が居館したと伝える。「陸奥話記」に康平五年(一〇六二)九月のこととして、「七日、関を破りて、胆沢郡白鳥村に到り、大麻生野及び瀬原の二の柵を攻めて抜き」とある。後三年の役のときにも戦場となり、「奥州後三年記」に「真衡がたちへをそひゆくみちにて、伊沢の郡白鳥の村の在家四百余家をかつかつ焼はらふ」と記される。建武三年(一三三六)一一月三日の実幸譲状(中尊寺文書)に中尊寺金色堂読経田五反の所在地として「伊沢郡石崎村」がみえ、当地の石崎いしざき観音堂(現在は廃絶)にかかわるかとする説があるが不詳。

白鳥村
しろとりむら

[現在地名]白鳥町白鳥

みなと川下流域の村。北は松原まつばら村に接する。千光寺せんこうじ池の奥や、四房しぼうの丘陵地帯から弥生時代の遺物が出土し、秋葉あきば山の尾根上には四世紀後半と思われる大日山だいにちやま古墳がある。てら山の南麓に高松たかまつ寺跡があり、平安後期の瓦が出土。古代の白鳥郷の遺称地で、南海道が付近を通っていたと推定され、元暦二年(一一八五)二月一八日、源義経は阿波から引田ひけた(現引田町)・白鳥を経て屋島へ向かったという(「平家物語」巻一一)。水主神社大般若経函底書(水主神社蔵)に記す至徳三年(一三八六)の大水主社奉加帳に経函製作のための寄進者として「白鳥高松寺現前住持大徳律師良毫」の名がみえ、文安二年(一四四五)の奉加帳には白鳥僧衆五七名と白鳥の三五名が記されており、白鳥郷は水主みずし神社(現大内町)の氏子圏にあったと考えられる。また紀州熊野那智大社の旦那場であったとみられ、文正二年(一四六七)二月一〇日の道助旦那譲状(熊野那智大社文書)や文明五年(一四七三)七月一〇日の旦那売券(同文書)に白鳥がみえる。

白鳥村
しらとりむら

[現在地名]栄村大字豊栄とよさか

千曲川峡谷(市川谷いちかわだに)の北岸小段丘上にあり、関田せきだ山脈の麓に立地。谷筋道に沿い西大滝にしおおたき(現飯山市大字照岡)との間に一里塚がある。野々海ののみ峠を越え越後菖蒲しようぶ(現新潟県東頸城ひがしくびき大島おおしま村)へ通じ、頂上野々海池で分岐して深坂みさか峠を越え越後浦田うらだ(現新潟県東頸城郡松之山まつのやま町)へも通ずる。

永正六年(一五〇九)上杉憲房が越後守護上杉定実・長尾為景を討つため越後へ攻め入った時、信濃衆市河・小笠原・泉・高梨らは「此等信濃・越後の境敷見口・白鳥口と号候所ヨリ六郎殿為味方、越州津張之庄出張」して長尾方に応じ憲房方を破ったが、報戦のため上州から越後へ討ち入った関東管領上杉顕定に敗れ尾崎おさき(現飯山市大字寿)まで追われた(金沢系図略伝)

白鳥村
しろとりむら

[現在地名]白鳥町白鳥

為真ためざに村の北、長良川左岸の河岸平野に立地し、曾部知そべち川以北に集落がある。現白鳥町の中心地域。北部に美濃国神名帳に正六位上白鳥明神と載る白鳥神社があり、村名はこれに由来する。立多羅たつたら古窯跡は焼物洞やきものほらの名も残り古代の灰釉の陶器が出土する。鎌倉時代に親鸞の弟子嘉念坊善俊が一時当村に滞在、布教したという(岷江記)来通らいつう寺の北東方に嘉念坊の碑があり、毎年浄土真宗の報恩講で、お通夜行事が行われている。長滝ちようりゆう寺蔵の応仁二年(一四六八)一〇月一七日棟札に「奉造立金剛童子御殿一宇(中略)応仁二暦歳次戊子十月十七日 大工白鳥住侶太郎左衛門尉」とみえる。烏帽子山えぼしやま城は村域北方の標高七二六メートルの山上にあり、一千石を領した東頼数が拠城していたという(「野田家過去帳」野田文書)

白鳥村
しろとりむら

[現在地名]村山市白鳥

北流する最上川の西部、山の東麓に位置する。南は長善寺ちようぜんじ村。最上川は当村の北東部で西方へ大きく屈曲し、のせはやぶさの難所を形成する。地内には縄文時代の三ヶ瀬遺跡がある。永禄元年(一五五八)七月日の明順坊了勝置文(金覚寺文書)に「羽州最上郡白鳥邑」とある。樽石たるいし川に張出した丘陵上(標高二一五メートル)に白鳥館跡があり、南北朝期から白鳥氏が代々居住したという。館跡は東側に郭状の遺構がある。西側には尾根続きの部分を断ち切る幅約九メートル、深さ約四メートルの空堀があり、この堀は館の内部に通じて空堀道となる。

白鳥村
しらとりむら

[現在地名]甘木市白鳥

小隈おぐま村の南、佐田さだ川下流右岸の平野部に位置する。下座げざ郡に属し、東は同川を隔てて八重津やえづ村、西は吉末よすえ村、南は筑後国竹野たけの高食こうじき(現大刀洗町)江戸時代を通じて福岡藩領。本村および富永とみながの集落があるが(続風土記拾遺)、古くは白鳥富永村と称したといい、慶長三年(一五九八)一二月一三日に石田三成が発給した年貢皆済状の宛先は「白鳥村・富永村百姓中」となっていた(続風土記附録)。小早川時代の指出前之帳では白鳥村は富永村を含み、田二一町一反余(分米二二〇石余)・畠二町九反余(分大豆四三石余)。慶長石高帳には白鳥・富永村とあり、慶長七年の検地高五一三石余、うち大豆五六石余。田圃志に富永村とあり、元禄五年(一六九二)には高五一五石余・反別三九町三反余、家数二五・社四、人数一九六。

白鳥村
しろとりむら

[現在地名]石井町石井 白鳥

石井村の西、気延きのべ山北麓の沖積平野にあり、西端を渡内わたうち川が北流する。東は尼寺にじ村・内谷うちだに村、敷地しきじ(現徳島市)、北は市楽いちらく村。村名は当地に鎮座する白鳥神社にちなむという。天正一七年(一五八九)五月二八日の下羅井番水定書(坂東家文書)に村名がみえ、下羅井したらい用水の番水の四番・八時を勤めることとなっている。慶長一四年(一六〇九)六月二六日の御意之覚(同書)にも村名がみえる。

白鳥村
しろとりむら

[現在地名]浜松市白鳥町・流通元町りゆうつうもとまち

大見おおみ村・長命ちようめい村の北に位置。豊田郡に属し、城取とも記した。松平忠頼領郷村帳では高六四三石余、田四五町一反余・畑二四町一反余、ほか八幡領五石。領主の変遷は大明神だいみようじん村と同じ。享保四年(一七一九)の国領組諸色覚帳(岡部家文書)では高六八八石余。同帳によれば明暦元年(一六五五)には本田畑六五三石余・新田畑一五石余で、寛文五年(一六六五)までに川原新田二二石余が開かれている。明和九年(一七七二)の城附領分村々高帳では高六八九石余のうち新畑三五石余とある。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では家数五〇余軒(うち役家四三)。享保四年には家数七二、うち本百姓四八、人数五二〇、馬一二。

白鳥村
しろとりむら

[現在地名]長岡市白鳥町

関原せきはら新田の西、西山丘陵より流れ出たくろ川が川西平野に出る関門口に位置し、右岸丘陵の麓を関原新田から大積おおづみ村へ通じる高田たかだ往来沿いに集落が形成された。白鳥庄の遺称地。大永三年(一五二三)四月二四日、紀州熊野新宮の御師山本宗兵衛尉光頼が重代相伝してきた「ゑちこのくにさんとうこほり、さいしよはのそき・しろとり一円」の熊野参詣檀那の那智御師職を那智山花蔵院に二貫文で永代売渡した(「山本光頼旦那売券」米良文書)

白鳥村
しらとりむら

[現在地名]二戸市白鳥

坂本さかもと村の南東に位置。承応三年(一六五四)河野忠左衛門が知行替えによって当村等に合せて一五〇石の知行地を与えられている(雑書)。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高三七石余とあり、七ヵ年平均の免一ツ七分四厘七毛。元禄十郡郷帳では当村は坂本村へ入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)によれば蔵入高六三石余・給所高一〇一石余。「邦内郷村志」では蔵入高一六四石余のみで、馬は二一四。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数六〇、うち本村三一で、枝村は四ッ役四・小向こむかえ一・草木沢くさきざわ四・小岩井こいわい(小祝)五・馬飼沢まかいざわ一・松倉まつくら二・石倉いしくら三・子平こたえ二・つなぎ一・岩穴いわな一・小峠ことうげ五。

白鳥村
しらとりむら

[現在地名]小山市白鳥

巴波うずま川と与良よら川の合流点の低地にある。慶応元年(一八六五)村明細帳(金沢長一郎文書)に「川付地窪村ニて水損場に御座候」とあり、周囲を堤で囲う輪中集落であった。野木のぎ宿から部屋へや(現下都賀郡藤岡町)や栃木に至る脇往還に沿っていた。天正七年(一五七九)五月一八日の結城晴朝禁制(池沢文書)に「生井之郷之内白鳥之村」とみえ、古くは生井なまい郷の一部であった。

白鳥村
しろとりむら

[現在地名]池田町白鳥

砂畑すなばた村の南東、揖斐川右岸に立地。安八あんぱち郡に属する。天正一二年(一五八四)と推定される一二月二七日の弥七郎年貢請状(龍徳寺文書)に小作人白鳥住人弥七郎とあり、「定成百廿五文ノ所を 水ニて無沙汰申候」と記される。慶長郷帳にみえる安八郡城取村三七五石余は当村と考えられる。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本津田秀政領。正保郷帳でも同氏領で、田三〇一石余・畑七三石余。元禄郷帳でも同氏領。

白鳥村
しらとりむら

[現在地名]三橋町白鳥

垂見たるみ村の東にあり、北は上久末かみひさすえ村・下久末村。元禄国絵図・天保郷帳には記載がなく、柳川藩領図に垂見村の内として村名がみえる。高は記載されていない。万治三年(一六六〇)の忠茂公御代之分限帳(渡辺家史料)によると吉弘市進ら二名の知行地があった。安永七年(一七七八)の御領中村々神社覚(伝習館文庫)にも村名がみえる。旧高旧領取調帳では白鳥村は高四九五石余。幕末から明治初年の反別二七町九反余(郡郷)。明治九年(一八七六)の戸数九五・人数四〇九、馬二二、船二・荷車三。

白鳥村
しらとりむら

[現在地名]土浦市白鳥町

手野ての村の北東に位置する。文明二年(一四七〇)六月一日の小田成治寄進状案(法雲寺文書)に「寄進 常陸州南野庄神立郷之内白鳥之村者、高岡法雲寺并正受庵領也」とあり、法雲ほううん寺・正受しようじゆ庵に寄進されている。天正一八年(一五九〇)に結城秀康領となり、文禄四年(一五九五)に検地が実施された(「常陸国新治郡白鳥村御縄打水帳」富岡幸雄氏蔵)。その後、土浦藩領となり、寛永一一年(一六三四)西尾忠照によって検地が行われた(「常陸国新治郡白鳥村検地帳写」同氏蔵)

白鳥村
しろとりむら

[現在地名]豊川市白鳥町

久保くぼ村の南に続く。「白鳥村誌」によると、古くは国府こう村のうちであったが、天福元年(一二三三)に分れたとある。現集落は古代の国府域内に比定される。現在でも一町間隔の方格地割を残し、その規模は四町四方、または五町四方と推定されている。国衙跡は不明であり、北部のそう社の東辺とも考えられ、奈良時代の布目瓦が出土する。総社の南西には俗称大臣だいじんの字名があり、布目瓦も発見されている。

天正一七年(一五八九)一〇月九日の府中之郷御縄打水帳(大社神社蔵)には府中ふちゆう郷のうちとなっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報