白谷村(読み)しらたにむら

日本歴史地名大系 「白谷村」の解説

白谷村
しらたにむら

[現在地名]マキノ町白谷

しも村北西の山中にあり、南流する八王子はちおうじ川が西流してきた知内ちない川に注ぐ。北は三国みくに山などで越前・若狭国境となる。背後の山が花崗岩質の禿山なので村名となったという(高島郡誌)。享徳(一四五二―五五)頃と思われる旦那在所注文(熊野那智大社文書)に「しら谷」とある。幕府領から慶安四年(一六五一)上野館林藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領に復し、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領。寛永石高帳に高二二一石余とあり、慶安高辻帳では田方一二九石余・畑方二一石余・永荒七〇石余。享保九年大和郡山領郷鑑によれば高二二一石余、反別三四町一反余、家数五四(うち本百姓五一・水呑三)・人数二三二、馬一六・牛一九。

白谷村
しろいたにむら

[現在地名]日南町福塚ふくづか

鬼林きりん(一〇三一・二メートル)の南東麓、九塚くつか川支流で南流する白谷川上流部に位置し、南は宮田みやた村、北東無坂むさか村。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「シラタニ」と訓ずる。拝領高は一四一石余、本免は四ツ七分。寛永一〇年(一六三三)の田畑地詰帳写(日南町役場蔵)によると田方一四七石余・一三町三反(上田一町三反余・中田二町八反余・下田三町七反余・下々田五町三反余)、畑方七石余・一町八反余(上畑一反余・中畑二反余・下畑三反余・下々畑一町余)。嘉永元年(一八四八)の下札(同役場蔵)では朱高一五四石余(うち畑高一五石余)と開高二二石余に対して物成八〇石余、藪役三匁が課されている。

白谷村
しろやむら

[現在地名]田原町白谷

衣笠きぬがさ山の北面丘陵に集落をもち、渥美湾に臨む。天保三年(一八三二)の頃田はなく、畑は四町三反四畝余で、舟数二〇(地方秘録)蔵王ざおう衣笠の二山は北側に石灰岩を産し、昔から採石の作業がこの村の生計を支えた。元禄四年(一六九一)の「万留書」(田原町蔵)に白谷村庄屋が石灰焼の許可を願出た記事がある。明治七年(一八七四)家禄を失った藩士らが井戸沢いどざわ(藤七原)で石灰を焼き、同二〇年には他藩士も入って東洋組を組織し、湿式セメントを製造した。

白谷村
しらたにむら

[現在地名]板取村 白谷

現板取村の最南端、湾曲する板取川の東岸に位置し、対岸小瀬見おぜみ(現洞戸村)。村の東に白谷洞(観音洞)がある。村名は往古泰澄行脚の途中、白砂白石の谷川をみて名付けたという伝説に由来する(板取村史)。天正一七年(一五八九)七月一五日の板取之内村々検地帳写(長屋文書)に「しらたにむら」とみえ、高三六石八斗余、田一反五畝余・畑四町六反七畝余、名請人数一一。文禄三年(一五九四)八月二一日、山年貢三石五升を定められた(「深尾左介外二名連署申付状」同文書)。元禄郷帳に板取白谷村と記され、高三九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報