甲山村(読み)かぶとやまむら

日本歴史地名大系 「甲山村」の解説

甲山村
かぶとやまむら

[現在地名]大里村冑山かぶとやま

比企丘陵北東縁から荒川右岸の沖積低地に位置し、西は比企郡大谷おおや(現東松山市)、南は同郡たいら(現同上)、北は箕輪みのわ村。小八ッ林こやつばやし村に飛地がある。村内を通る熊谷往還は、村岡むらおか(現熊谷市)を経て熊谷宿に至るが、当村で同往還の脇道が分岐し、吉所敷きしよしき村・手島てしま村などを経て同じく熊谷宿に至る。古くは甲山と記し、箕輪村とともに一村で、元禄一一年(一六九八)に分村、明治元年(一八六八)冑山に改められた(郡村誌)。永禄五年(一五六二)四月五日の北条家掟書写(武州文書)によれば、「甲山」在陣の小田原北条勢は松山本郷(現東松山市)への出入りを停止されている。天正一〇年(一五八二)北条氏直は織田信長の家臣滝川一益を攻めるため軍勢三万余を率いて小田原を発ち、「横見ノ郡甲山」に着陣したという(関八州古戦録)

甲山村
こうやまむら

[現在地名]久美浜町字甲山

川上谷かわかみだに川の最下流部に位置し、北は古砂丘に火山灰層の重なった畑地が続き、浦明うらけ村・神崎かんざき村に至る。南に低湿な水田が広がり、西はかぶと(熊野権現山)の麓に掘った運河を通って久美浜湾に続く。地名は兜山に熊野神社が鎮座することから、もと「神山」であったともいわれる(熊野郡誌)

中世末の丹後国御檀家帳に「かうやまの里 家五拾軒斗」とみえ、慶長検地郷村帳には高二〇五・一石「幸山村」と記されるが延宝三年郷村帳では「甲山村」としている。

甲山村
かぶとやまむら

[現在地名]鳥取市里仁さとに

布勢ふせ村の東の平野部にある。慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳に「布施・甲山」が記される。元禄国絵図・元禄郷帳作成の際枝郷畠崎はたけざき村が高分けの枝郷として記載された(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。正徳元年(一七一一)郷村高辻帳では当村の拝領高相当分は二八五石余。寛保二年(一七四二)の高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると生高二一八石余、本免五ツ一分、山札銀三匁五分・藪運上銀二匁を課されていた。

甲山村
こうのやまむら

[現在地名]笠間市石井いしい

東は古町ふるまち村・石井村、南は飯岡いいおか村。中世は笠間氏の支配下にあり、江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名がある。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高五八・六八石となり、万治三年(一六六〇)・延宝二年(一六七四)の新開検地で合せて九石余を打出す。茨城郡山内南郷村差出帳(石井家文書)によれば、文化期(一八〇四―一八)に屋敷地は三畝二九歩あるが、「百姓二人潰れ切り、一人もこれなく」という状態で、人別は古町村に組入れられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報