田辺郷(読み)たなべごう

日本歴史地名大系 「田辺郷」の解説

田辺郷
たなべごう

和名抄」高山寺本は「田辺」(訓を欠く)、刊本は「田造」とするが、ほかに所見する例からみて、「田造」は誤りであろう。

田辺郷は、寿永三年(一一八四)四月一六日付平辰清所領寄進状案(東寺百合文書)に、大内おおうち郷の四至として「西限田辺郷堺子午仟佰并赤前山」とあり、大内郷に東接していた。

当郷については、元暦二年(一一八五)五月日付丹後国司庁宣(島田文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、同日付丹後国司庁宣案(古文書集一)には「可早充行雑色給田事」として、次のようにある。

<資料は省略されています>

なお、「吾妻鏡」建久五年(一一九四)一〇月二五日条によれば、この日鎌田兵衛尉正清の女に、「丹波国田名部庄」の地頭職が与えられているが、この「田名部」は田辺ではないかと考えられる。

田辺郷
たなべごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本をはじめ諸本とも訓を欠く。「太宰管内志」は「多乃倍」と読み、その名義に関しては不詳としながらも田地の広いところに由来するかとする。「日本地理志料」は、本郷北方ほんごうきたかた本郷南方(現宮崎市)の本郷は本来郷司のいた所として、大田おおたじようさき古城ふるじよう源藤げんどう赤江あかえ恒久つねひさ田吉たよし(現同上)加納かのう(現清武町)の諸村にあてる。「大日本地名辞書」は、徴証なしとしながらも大淀おおよど・赤江・生目いきめ(現宮崎市)などの地かとし、赤江の田吉を田辺の転訛とする説を否定した後、国郡考の櫛間くしま(現串間市)説を紹介し、さらに宮崎郡田野たの(現田野町)説をあげている。

田辺郷
たぬいごう

「和名抄」東急本には「田部」と記し、高山寺本ともに「多乃倍」の訓を付す。「皇太神宮儀式帳」に「田辺神社」、「延喜式」神名帳には「田乃家タノヘ神社」とあるが、同社は城田きだ矢野やの村に鎮座し、当郷内には皇大神宮摂社の蚊野かの社・朽羅くちら社・坂手国生さかてくなり社・榛原すぎはら社が鎮座(伊勢二所皇太神宮神名秘書)。天暦七年(九五三)の伊勢国近長谷寺資財帳(近長谷寺蔵)には「田辺郷里条金尾原」「同金尾」がみえ、天福二年(一二三四)正月二〇日の度会広光処分状(光明寺文書)には「田辺郷十二条六畝田里」「田辺郷荒木田秋真戸」がみえる。

田辺郷
たなべごう

「和名抄」にはない。天平五年(七三三)の右京計帳(正倉院文書)に、田辺郷戸主正七位上田辺史真立の戸に属していた婢一名が右京戸主物部連族五〇〇の戸に移貫したとある。永仁六年(一二九八)の西大寺田園目録にも田辺郷の名がみえる。「和名抄」の作成された一〇世紀段階では失われたが、住吉郡に当郷があったのは確実。現大阪市東住吉区と阿倍野区にわたって田辺を称する地名があるが、郷域はこの付近であろう。

田辺郷
たなべごう

「和名抄」諸本に訓はない。みや川の上流川流域の低丘陵地帯、現津山市東田辺ひがしたなべ・西田辺一帯が郷域と考えられる。美作国府跡(津山市)出土木簡に「田辺」がみえるが、当郷をさすと考えられる。「作陽誌」は式内社中山なかやま神社の鎮座地一宮いちのみやの地を当郷に含めている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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