生町(読み)くずうまち

日本歴史地名大系 「生町」の解説

生町
くずうまち

[現在地名]葛生町葛生・中央東ちゆうおうひがし・中央東一―三丁目・中央西ちゆうおうにし一―三丁目・鉢木町はちのきちよう富士見町ふじみちよう朝日町あさひちよう宮下町みやしたちよう

秋山あきやま川左岸台地上に立地し、東を秋山川支流の小曾戸おそど川が流れる。南は安蘇郡なか村、北・東は小曾戸村、北は正雲寺しよううんじ村、西は上多田かみただ村。葛生の名は、葛が生茂っていたことに由来するといわれる。山本の里やまもとのさととも称されたという。天文二三年(一五五四)足利義氏は「八木橋・葛生」を豊前左京亮に与えている(同年七月二八日「足利義氏充行状写」豊前氏古文書抄)。元亀二年(一五七一)八月六日の大庵寺々領目録(大庵寺文書)に岡藤次良分として葛生郷のうち「あみた免 多田分屋敷一間 一貫 阿ん養坊」がある。本光ほんこう(現田沼町)の開山二世総主(宗磋)は、大永(一五二一―二八)末年舜哲に同寺を譲り葛生善勝庵(現善増寺)に隠居した(「本光寺開創記」本光寺蔵)

都賀つが郡に属し、慶安郷帳によれば田四六八石余・畑一千六一二石余、朽木稙綱領。慶安二年(一六四九)常陸土浦藩領となり、同四年から幕府領。寛文元年(一六六一)から上野館林藩領となり、城付領として葛生村から葛生町と改められ、地内は南から北に上町・中町・下町・新町に分れたという。

生町
くずうまち

面積:九一・二九平方キロ

郡の北東部を占める。東は栃木市、西は田沼たぬま町、南は下都賀しもつが岩舟いわふね町、北は上都賀郡粟野あわの町・群馬県勢多せたあずま村。足尾あしお山地の南西部にあたり、南北に細長く秋山あきやま川流域の段丘上に平地が形成される。東・西・北側を山に囲まれ、北高南低の地勢。町の中心は秋山川と小曾戸おそど川の合流地域に形成される段丘上の葛生で、秋山川・仙波せんば川流域の常盤ときわ・秋山地区と小曾戸川流域の会沢あいさわ地区を後背地とする谷口集落として発達し、とくに江戸中期からは石灰業が盛んとなり現在に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報