玉庄(読み)たまくしのしよう

日本歴史地名大系 「玉庄」の解説


たまくしのしよう

摂関家・宇治平等院領の庄園。玉串とも書き、市域中部の玉串たまくし川沿いの地域一帯にあった。「小右記」長和四年(一〇一五)四月五日条に「玉串庄人追散辛島庄馬之日記」とみえる。同記によるとその頃玉櫛庄は左大臣藤原道長の家領で、当庄が隣接する大納言藤原実資家領の辛島からしま庄の牧地を庄内に取込んで境界争いが起き、玉櫛庄民が辛島庄の放牧を妨げて馬を追散らす事件があった。このとき道長は辛島牧司であった源訪という者に玉櫛庄司を兼任させ、双方の四至境を定めさせるよう実資に提案している。次いで関白頼通が永承七年(一〇五二)に宇治の別業を寺として平等院を創立したとき、玉櫛庄など九ヵ所の庄園が寄進され同院領となった。「中外抄」「続古事談」によると、その際頼通は諸庄から米を取寄せて長櫃の蓋に砂子のように蒔き並べ、庄名を記入した札を立てて検分したところ、「河内国の玉櫛御庄の米」が第一であったという。

玉庄
たまのしよう

現韮崎市穂坂町三之蔵ほさかまちさんのくらの諏訪神社蔵の天正三年(一五七五)一一月二八日棟札銘に「巨麻郡玉庄小笠原郷三蔵」とある。「甲斐国志」では多麻たま庄と書き、樫山かしやま浅川あさかわ(現高根町)津金つがね穴平あなだいら若神子わかみこ小倉こごえ東向ひがしむき大蔵おおくら藤田とうだ大豆生田まみようだ(現須玉町)の諸村が属したとするが、これらの地域は逸見へみ庄や山小笠原やまおがさわら庄の庄域と重複することになり、併存したとは認められない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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