猪苗代城(読み)いなわしろじょう

日本の城がわかる事典 「猪苗代城」の解説

いなわしろじょう【猪苗代城】

福島県耶麻郡猪苗代町にあった城。蘆名氏の重臣の猪苗代氏の居城。同町中心部に近い小高い丘の上につくられた平山城(ひらやまじろ)で、南北250m、東西200mの城域を有する。源頼朝の奥州藤原氏攻め(奥州合戦)で戦功のあった相模(現神奈川県)の御家人佐原(猪苗代)経連(つねつら)が鎌倉時代初めに築城したとされる。その子孫は代々猪苗代氏を名乗るようになった。戦国時代、会津の大勢力となった蘆名氏も佐原氏を祖としており、猪苗代氏は蘆名氏と同族である。猪苗代氏は蘆名氏と離反従属を繰り返し、1589年(天正17)、伊達政宗(まさむね)との間で起こった摺上原の戦いの直前、城主の猪苗代盛国(もりくに)は政宗に内応し、伊達勢を城に迎え入れたことから蘆名氏は敗れ、そのまま本拠の黒川城の落城滅亡につながった。しかし、豊臣秀吉の奥州仕置により伊達氏から会津が召し上げられると、猪苗代氏も居城を離れた。その後、会津の領主は蒲生氏郷(がもううじさと)、上杉景勝蒲生秀行蒲生忠郷加藤嘉明、加藤明成、保科正之(のちに子孫が松平氏に改姓)と続くが、江戸幕府の一国一城令後も、城としての存続を許され、戊辰戦争まで城の役割を果たした。戊辰戦争(会津戦争)で新政府軍が会津に侵入すると、会津藩の城代、高橋権大夫は猪苗代城を焼き払って会津若松へと撤退した。このとき、城の建物はすべて失われ、城としての役割を終えた。城跡には本丸、二の郭、帯郭の石垣・土塁・空堀跡が比較的良好な状態で残されている。城の東麓の大手門跡には、穴太積(あのうづみ)の技法による石垣の大きな枡形虎口が残っている。これは蒲生氏の領主時代につくられたものではないかと考えられている。JR磐越西線猪苗代駅から徒歩約20分。◇亀ヶ城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報