狭山庄(読み)さやまのしよう

日本歴史地名大系 「狭山庄」の解説

狭山庄
さやまのしよう

近世の佐山さやま村を中心に木津きづ川右岸一帯に形成されたと推定される荘園。荘名は古代久世郡狭山郷に由来すると思われるが、史料により佐山とも記される。

建武四年(一三三七)一一月二九日付の実相院文書に「山城国狭山庄奉信通濫妨事、奉聞候之処、止其妨、可令所務給旨、院御気色所候也」とみえ、文書の宛先に「実相院僧正御房」とあるので狭山庄に実相じつそう(現京都市左京区)領があったことがわかる。

狭山庄
さやまのしよう

古代から中世における奈良興福寺大乗院領庄園で、庄域は古代丹比たじひ郡狭山郷(和名抄)付近と考えられる。庄名は「玉葉」建久二年(一一九一)三月一日条に記す、造興福寺長官藤原親雅の報告書にみえる。弘長三年(一二六三)三月一八日の太政官符(春日大社文書、以下同文書)によると、当庄は天平宝字元年(七五七)に本領主草賀種吉が聖朝の安穏と滅罪生善のために興福寺の仏聖灯油料所として寄進し、翌二年勅施入された。建久二年、国司が当庄を収公する事件があり、興福寺の訴えを受けた九条兼実が後白河上皇裁決を請い、五月四日には国司の押妨を禁ずる院宣が出された(玉葉)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報