瀬戸井村(読み)せどいむら

日本歴史地名大系 「瀬戸井村」の解説

瀬戸井村
せどいむら

[現在地名]八千代町瀬戸井

鬼怒きぬ川旧河道(現在は水田)の西に位置。東は旧河道を隔てて新井あらい村。古来鬼怒川中流の乱流によって形成された沖積地水田地帯。小字に館前たてまえ館下たてした館内たてうち館前中たてまえなかほりうちなどがみえ館跡の存在を示唆しているほか、蔵の下くらのした蔵本内くらもとうちなどは郷倉跡を物語っていよう。

天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉宛行状(山川修二文書)に「二百廿貫文 せとひ」とみえ、山川やまかわ(現結城市)城主山川晴重の領地であったが、慶長六年(一六〇一)に晴重は越前へ移封。

瀬戸井村
せどいむら

[現在地名]千代田町瀬戸井

南に利根川が流れ、東は上五箇かみごか村、西は赤岩あかいわ村、南は武蔵国埼玉郡酒巻さかまき村・北河原きたかわら(現埼玉県行田市)、北は赤岩村萱野かやの村。休泊きゆうはく堀の用水赤岩村から当村の中央を東流して上五箇村に入る。「吾妻鏡」に記す宇治橋渡河にみえる藤原秀郷の後裔佐貫広綱の子瀬戸井五郎が当村に住したと伝える。天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)は、小泉こいずみ(現大泉町)の城主冨岡氏の所領を示しており、そのなかに「館林領之内」として瀬戸井がみえる。近世は初め館林藩領。正保元年(一六四四)から寛文元年(一六六一)までの大給松平氏が藩主の期間は幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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