瀬原(読み)せわら

日本歴史地名大系 「瀬原」の解説

瀬原
せわら

[現在地名]衣川村下衣川

衣川の北岸、北上川の西岸にある地名で、平安時代後期からの中尊寺文書にみえる瀬原村の遺称地。近世には下衣川村の屋敷名(字名)で、奥州街道が通り、仙台藩の足軽屋敷があった。なお中世の瀬原村の範囲は北上川・衣川の河道が変わっていることもあり、特定することはむずかしい。「陸奥話記」に康平五年(一〇六二)九月七日のこととして、「関を破りて、胆沢郡白鳥村に到り、大麻生野及び瀬原の二の柵を攻めて抜き」とある。この瀬原を当瀬原をさすとみる説もあるが関が衣川関で、大麻生おおあそう野が近世の上麻生かみあそう(現前沢町)辺りだとすれば(白鳥村は現前沢町南端に比定され、異説はない)、瀬原柵はそれより北に位置するとして否定的な見解もある。

天治三年(一一二六)三月二五日の中尊寺経蔵別当職補任状案(中尊寺文書。以下同文書は省略)に瀬原村がみえ、一切経書写の奉行として八年のうちに完成させた功賞として経蔵別当に補任された自在房蓮光は、瀬原村にある屋敷二ヵ所などを経蔵に寄進し、その相伝を藤原清衡に安堵された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報