滑石村(読み)なめいしむら

日本歴史地名大系 「滑石村」の解説

滑石村
なめいしむら

[現在地名]玉名市滑石

菊池川河口の右岸にあり、北は小浜こばま村、西は山下やました村・高道たかみち(現玉名郡岱明町)に接し、南は有明海。村名は神功皇后が三韓出兵の帰途持帰った小石をこの辺りの海に捨てたところ、その小石が高さ二尺・横三尺ほどの真青黒色の石になったと伝えられることに由来するという。

寛永期(一六二四―四四)と推定される肥後領高人畜家数船数調(永青文庫蔵)に村名がみえ、船二四で、うち二五〇石より一五〇石の大船五・小舟津廻船四・猟船七・うゑ船八、水夫四〇。正月にはぼら・ふぐ、二月にはこち・あげまき、三月にはさより・まながつお、四月にはぐち・ちんたい、五月にはえい・きすこ、六月にはうなぎ・はも、七月から九月にはいな・あみ・ひら、一〇月にははまぐり・うねかい、一一月には大のがい・たいらぎ、一二月にはたい・うちがきなどを猟し、川では松露をとった。

滑石村
なめしむら

[現在地名]長崎市滑石町・横尾町よこおまち・滑石一―六丁目・横尾一―五丁目・北陽町ほくようまち北栄町ほくえいまち大宮町おおみやまち大園町おおぞのまちにじ丘町おかまち葉山はやま二丁目

浦上北うらかみきた村の北西にあり、浦上川上流筋に立地する。江戸時代ははじめ幕府領、慶長一〇年(一六〇五)より大村藩領で、向地むかえち地区に属する。同年の大村領内高目録に「なめし村」とみえ、高三一七石余で、田二四町四反余・畠七町、物成一七四石余。同一七年の総検地では「滑石村」として高三七〇石余(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高も同高とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。慶長国絵図では「名目志」として高三一七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報