湯野沢村(読み)ゆのさわむら

日本歴史地名大系 「湯野沢村」の解説

湯野沢村
ゆのさわむら

[現在地名]村山市湯沢ゆざわ楯岡鶴たておかつるちよう一―二丁目・楯岡北町たておかきたまち一―二丁目・楯岡湯沢たておかゆざわ

山形盆地北東部、こしき岳西麓、楯岡村の北東にある。東部の馬坂まざか鉱泉から村名がつけられたと伝える。文安二年(一四四五)四月一五日の銘をもつ曹洞宗龍門山祥雲しよううん寺の六角膳に「出羽国村山郡湯之沢村(鷲)霊峰 仏法龍門山祥雲寺楯岡城主為 菩提納之 伊(予)守満国公」とある。祥雲寺の創立は不明だが、正長―永享年間(一四二八―四一)楯岡城主最上満国が開基となり、日山良旭を開山第一世としたと伝える。

湯野沢村
ゆのさわむら

[現在地名]村山市湯野沢

最上川西部、山の東麓、千座せんざ川中流に位置し、東は大久保おおくぼ村、南は岩木いわき(現西村山郡河北町)。西方山中に鉱泉があり(富本温泉)、村名のもととなった。最上氏領より元和八年(一六二二)新庄藩領となり、上谷地かみやち郷に属した。新田本村鑑には枝郷として吹上ふきあげ水走みずばしりが記される。元和八年の御前帳写では湯之沢村とあり、高二千六六四石余。正保郷帳も同表記で、田方二千六〇一石余・畑方六三石余。

湯野沢村
ゆのさわむら

[現在地名]増田町湯野沢

成瀬なるせ川と狙半内さるはんない川が合流する狭い谷の河岸にある。南対岸は猿半内村枝郷川口かわぐち村、成瀬川の上流田子内たごない(現雄勝郡東成瀬村)、西は吉野よしの村。

宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)に合計当高九九石余とある。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)に家数三五軒とあり、当高九九石余のうち新田当高が五七石余。その後一一四石余と増加、藩政期の開発がわかる。

湯野沢村
ゆのさわむら

[現在地名]鶴岡市湯野沢

中京田なかきようでん村の東、あか川西岸の自然堤防上にあり、西部を青竜寺川が流れる。備中街道が東西に通り、また赤川に湯野沢川戸(船着場)があった。水害の常襲地であるため水除堤防に囲まれている。慶長一六年(一六一一)検地帳(大川文書)には湯沢ゆのさわ村とあり、最上氏家臣小国摂津守の給地。本田二万一千九六七束刈・取米一六二石余、出田五千四四〇刈・取米四八石余、苗代六六〇刈・取米六石余、発田四千八三八束刈・取米三五石余、畠本米二四石余、居屋敷二一(うち寺屋敷一)、家数二六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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